京都光華女子大学 公開シンポ「仏教看護を考える」

京都光華女子大学

 

公開シンポ「仏教看護を考える」

医療現場との接点や協働の可能性は

 

京都光華女子大学(高見茂学長)が仏教看護を標榜する看護学科を開設して9年目を迎えた。同大学の真宗文化研究所(小澤千晶所長)が主催し、特別企画公開シンポジウム「仏教看護を考える」を30日に開催した。仏教看護への取り組みを振り返りながら、4人のパネリストの発言から仏教と臨床現場との接点や協働の可能性を模索した。

光華女子大学で仏教看護論を指導する早島理氏(滋賀医科大学名誉教授)は、宗教学者の島薗進氏が説く阪神淡路大震災と東日本大震災との間にある精神文化の変化を冒頭で紹介。阪神淡路大震災が起こった1995年は、「心のケア」「臨床心理士」が注目され、精神医学や心理学など科学的根拠に基づいた手法に期待される時代だった。一方、東日本大震災の起こった2011年は、「グリーフケア」「臨床宗教師」など、宗教・スピリチュアリティーによって災害に寄り添うことを求める時代へと変化した。

早島氏はこの変化を医療分野に重ねて解説。科学的な病気治癒に主眼を置いていた従来の医療から、「治すことはできないが患者を見守り支える」という心的な側面も合わせた包括的治療が求められる時代へ変化したことを示した。そして「合理性の中で見えてくる世界と、心の中で見えてくる世界は、紙の裏表のようなもので、この二つを複眼的に見ることが重要」と、仏教と看護との関わりを説明した。

茎津智子氏(京都光華女子大学看護学科長)は、看護学が理論化されてきた歴史をたどった。従来の科学的見地に基づいた考え方から、1980年代半ばには「人は身体、心、魂の統一体の存在である」といった、見える部分だけではないことへのパラダイムシフトが起こった点を紹介。また人の苦しみ、悩み、悲しみ、倫理的課題などの点において、「今後は仏教者との協働が大事な時代になってくる。看取りや終末期だけでなく、在宅看護が大きな問題としてある中で、地域でも協働できる部分があるのではないか」と提言した。

臨床僧侶の長倉伯博氏(京都光華女子大学・国立滋賀医科大学非常勤講師)は「病床に僧侶がいてもおかしくない風景をつくりたい」と、30年間にわたってビハーラ活動に奮闘してきた一端を紹介。筋ジストロフィーになった20代青年とのやり取りなど、多くの死を見てきた現場での出来事を話しながら、「病床では、患者さんの人生の物語に折り合いをつける必要が多かった。そのことに加え、現在の周囲の人間関係に折り合いをつけることの二つができれば、患者さんにほほ笑みが浮かぶ」と語った。

柳下圭代氏(大和大学看護学科講師)は25年にわたって看護師として働いた後、光華女子大学大学院を修了した。赤裸々な延命治療の現場の様子を伝えるとともに、看護師として勤めた後に仏教看護を学んだ経験を踏まえ、「看護師は患者の代弁者。さまざまなジレンマを抱える現場で、マニュアルだけではなく人間としての価値観、死生観、倫理的な感性を研ぎ澄ませることのできる人材が望まれている」と訴えた。

後半のディスカッションでは、改めて仏教と看護の協働の可能性について検討。長倉氏は「仏教と医療で共通しているのは、人生を深く味わうチャンスをつくること。そして協働のためには具体的事例を重ねていくことが大切。欧米の病院における宗教者やチャプレンの役割は、患者やその家族へのケアが50%、医療者へのケアが50%。そこまでいって初めて協働と言える」と語った。

また茎津氏は「一般人からすると、仏教者は葬式や法事以外で何をしている人なのかわかりにくい」と指摘。「仏教は生きている人間に何ができるのか。そして医療者側からは仏教に何を求めるのか。互いに発信し、理解を深める必要がある」と課題を提起した。

現在、救急病棟で働く同大学の卒業生もシンポジウムを聴講。「仏教看護の授業で、自分自身の死生観を考えることができた。亡くなる方や、意識のない患者が本当に希望する治療をしているのだろうかと悩むこともある。その中で、自分ならどうしたいかと考えることを、仏教看護を通じて学べた。大学時代に倫理観を学ぶことは重要」と、仏教看護の視点の必要性を語っていた。