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文化時報社 について

文化時報社は大正12年に創刊以来、伝統ある寺社に取材し各神社、総大本山、教団、全国寺院の動向や情報、教団関連の学園や関連業者の記事を掲載した宗教専門紙『文化時報』を発行しており教団同士の情報交換にも役立っています。

居場所づくりに宗教者協力 西成高校「となりカフェ」

 大阪府立西成高校(大阪市西成区)で生徒らの居場所となっている「となりカフェ」の運営に、金光教大阪センター(若林正信所長)が協力している。困難を抱える生徒らに、家庭でも学校でもない「サードプレイス(第三の場所)」を提供し、ドロップアウトを防ごうという取り組み。金光教の宗教者らが神前のおさがりとして食品を提供し、傾聴に当たっている。(主筆 小野木康雄)

西成高校の「となりカフェ」で、生徒の飲み物を作る金光教教師ら

 7月9日の昼休み。チャイムが鳴るとすぐ、男子生徒が駆け込んできた。「俺、きょう昼飯ないねん」。炊きたてのご飯をよそい、自分でおにぎりを作り始めた。

 となりカフェは校舎2階の相談室で、放課後を中心に月5回ほどオープン。食事を提供する目的で、昼休みや始業前に開くこともある。困窮家庭の子、ルーツが外国にある子、性的少数者の子。介護など家族の世話をする〝ヤングケアラー〟も少なくない。生きづらさを抱える生徒にとっては、等身大の自分でいられる貴重な居場所だ。

 1年の頃からカフェに通う3年の男子生徒(18)は、外見にコンプレックスがあって、人と接するのが苦手だという。それでも「ここにいる大人はフレンドリーで、区別なく優しく会話してくれる」。自分から話し掛ける勇気をもらい、友人ができたと笑顔で語った。

教会が後方支援

 となりカフェは、若者支援に携わる一般社団法人「officeドーナツトーク」(田中俊英代表)が2012年秋から行っている。同社団のメンバーに、神職に当たる金光教教師がいた縁で、金光教大阪センターが2019年5月から協力している。

 月例祭などで神前に供えられる食品を支援団体に送る「おさがりねっと」を構築。中近畿教区(大阪府、奈良県、和歌山県)の約20教会がサポーターとなり、大阪センターが事務局として物資の需給を調整する。となりカフェではお米が必要とされることが多く、9日には無洗米5㌔を贈った。

 また、中近畿教区青年室に所属する若手の金光教教師が月1回、活動を手伝う。保護者でも教職員でもない「第三の大人」として、同社団のスタッフと協働している。

 布教が目的ではない。金光教には、信者であるかどうかを問わず「皆、神の氏子」という考え方がある。教会から現場に出て、困っている若者を助け、学びを深めるための活動だ。

昼休みには炊き立てのご飯も提供

温かい目線で

 西成高校生徒支援室室長の森ゆみ子教諭(49)によると、となりカフェを設けたきっかけは、ある女子生徒が「家にキャベツしか食べ物がない」と語ったことだった。生徒らの遅刻や居眠りの背景に、貧困をはじめとするさまざまな困難が浮かび上がった。

 「成績を付ける教員と付けられる生徒という上下関係から離れて、ほっとできる居場所が必要」。そう考えて、カフェの運営を外部に任せ、教員がめったに寄り付かないようにした。勉強に向かうハードルを下げる授業や専門職との連携など、さまざまな取り組みと合わせて、中退率を下げることにもつながった。

 9日午後3時半。放課後のカフェにも、生徒が代わる代わる訪れた。ギターを弾いたり、ボードゲームに興じたり、おしゃべりをしたり。金光教教師とスタッフらは、生徒の飲み物を作りながら、さりげなく声を掛けて会話に入っていく。深刻な相談があれば、別室で対応するという。

 「officeドーナツトーク」の精神保健福祉士、奥田紗穂さん(30)は、金光教教師について「宗教者ならではの温かい目線で生徒に接してくれるし、思いが伝わってくる。今後も手伝いに来てほしい」と語る。

 金光教教師の青山信明さん(37)は「通ううちに、青少年と接することに慣れてきた。この経験を教会での対応につなげたい」。白神ナナさん(22)は「こちらが高校生から元気をもらえる。宗教者としての視野が広がり、成長できる」と話した。

オープン前には廊下に看板が出される

(文化時報2020年7月22日号から再構成)
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悲しむ私 見守る仏…震災支援から台風被災

 浄土宗大本山増上寺布教師会が東日本大震災で被災した宮城県岩沼市で開く「法話の会」に、主催者の一人として参加する郡嶋泰威・量寿院住職(50)=千葉県南房総市=は、2019年9月に千葉県を襲った台風15号の被災者でもある。支援する方とされる方、両方を経験して分かったのが、「娑婆世界=用語解説=では全ての人が快適に生きられない」ということ。だからこそ、念仏の教えが大切だと気付いた。(大橋学修)

浄土宗量寿院の郡嶋泰威住職

 浄土宗浄蓮寺(千葉県鋸南町)の長男として生まれた。幼い頃から僧侶になることに疑いを持たず、進学先は大正大学仏教学部浄土学コース。大学院に入ってからは、傳通院(東京都文京区)で実務にも励んだ。愚直に学ぶ真面目な青年僧だった。

 修士課程を終えた後も傳通院で勤務する傍ら、布教師養成講座に入行。話の組み立て方や高座=用語解説=に上った際の所作などを学び、高座説法の実演を行った際、指導員にこう指摘された。「あなたの信仰はどこにあるのだ。高座に上がる資格はない」

 思い返せば、全て理屈で考え、頭で組み立てただけだった。もう一度、ゼロから学び直すことにした。

 学んできた書物を改めて読み、宗祖の言葉に触れると、気付いたことがあった。「法然上人を見失わなければ、迷ったときに戻る所がはっきりする」。念仏行を続けることは、極楽往生を目指すことだと確信した。蓄積してきた知識に、信仰という芯が通った。

 「思えば、これが本当の意味で、僧侶としてのスタートだった。葬儀を勤める際には、『この方を救ってくださる阿弥陀さまがいてよかった』と感じるようになった。遺族にも、この気持ちを伝えられることを、本当にありがたいと思う」

震災遺族との出会い

 35歳で傳通院を退職してからは、布教師として各地を飛び回るようになった。2012年には大本山増上寺布教師会の活動で、東日本大震災の被災地に出向き、震災遺族や自死遺族のために法話を行う機会を得た。「現場を見てショックを受けた。遺族の方の悲しみの深さに打ちのめされた」

 それから毎年、縁のあった岩沼市を年2回訪問し、「法話の会」を開催してきた。その中で、教えを求める人が多いことに気付いた。「募っていたイライラが、法話を聴くと収まる」と話す人もいた。

 「訪問するには本当に勇気がいる。ただ、阿弥陀さまのことをストレートに伝えることが大切。余計なことはいらない」

 「法話の会」は、大切な人を亡くしたつらさを抱える人々が集まり、思いを語り合う場所にもなっている。ただ、震災から9年という時の流れとともに、「まだそんな所に行っているのか」と言われる人も出てきたという。

 「被災地であっても、自分の気持ちを迂闊に言葉に出せなくなっている。つらさや悲しみを安心して出せる場所が必要。心の支えがないと、心がもたない」。郡嶋氏は話す。

つらくても苦しくても

 郡嶋氏が住職を務める量寿院は、かつては住職がいなかった。縁あって入寺することになったが、本堂だけの寺院で、住む所がない。そのため、車で10分ほど離れた実家の浄蓮寺で住職の父と同居し、副住職として法務を勤めている。

 千葉県を中心に甚大な被害をもたらした2019年9月の台風15号は、関東地方に上陸した台風では観測史上最強といわれる勢力で、浄蓮寺も多大な被害を受けた。

 本堂の屋根が全て吹き飛ばされ、生活の場である庫裏や客殿の瓦が飛散。雨漏りによる浸水も深刻で、本堂はもとより、庫裏も使用不可となった。「一晩で壊れた。やはり、釈尊が説かれた諸行無常の通りだ」

 皆でなんとかやっていくしかないと、さまざまな人から支援を受けながら、復旧に取り組んだ。そこへ、被災から1年もたたないうちに猛威を振るった新型コロナウイルス。外出自粛を余儀なくされる状況で、被災時の心境がよみがえった。

 「つらい時も苦しい時も、阿弥陀さまは泣き暮れる私を抱きしめて、『つらいよな、苦しいよな』と泣いてくれる。ただ念仏申すだけで、必ず最後は極楽浄土に助けてくれる」

 そして、コロナ禍で閉塞する社会の人々に向けて語る。「独りじゃない。阿弥陀さまが見てくださっている」
        ◇
【用語解説】娑婆世界(しゃばせかい=仏教全般)
 汚辱と苦しみに満ちた現世を示す言葉。サンスクリット語で忍耐を表す言葉を音写したもので、浄土の対比語として用いられるため、「忍土」とも漢訳される。

【用語解説】高座(こうざ=仏教全般)
 説教を行う僧侶のために一段高く設けた席で、高座を設けた説法を「高座説法」あるいは「節檀(ふしだん)説法」と呼ぶ。説法が大衆芸能化したことで、後に寄席で芸を演ずる場所としても用いられるようになった。

(文化時報2020年7月15日号から再構成)
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【取材ノートから】人とつながることの意味 安岡遥

 新型コロナウイルスによる国内初の死亡者が確認されて間もない2月下旬、私は本紙記者への転職を機に、福岡県の実家から京都市へ移り住んだ。京都へ向かう新幹線の乗客は一様にマスク姿で、感染への懸念からか会話もまばらだった。同じように振る舞いながらも、その光景を少々異様に感じたことを覚えている。

 だが今では、外出時のマスク着用は当たり前。入社したばかりの職場でも、早々に在宅勤務が呼び掛けられ、電話やテレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じた取材が増えた。「人とのつながりがなくなっても、案外生きていけるものだ」。ふと、そんな思いが湧く瞬間があった。

 考えを改めるきっかけとなったのは、「Zoom」を利用して法要の配信を行う群馬県太田市の曹洞宗寺院、瑞岩寺への取材だった。

 住職は、「大切な法要に、感染を心配せず参加してほしい」との思いから「Zoom」による配信を提案する一方、「悲しみを癒やすという点では、対面での法要に及ばない」と強調した。

 「花や線香を買ってお寺に足を運び、故人を知る人同士で思い出を分かち合う。そうした営みの中で、人は死別の悲しみを癒やしていくものだ」。その言葉を聞いて、思い出す光景があった。

 私は3年前、5歳年上のいとこを登山中の事故で亡くしている。生前の彼とは挨拶を交わす程度の間柄で、会話らしい会話をした記憶はほとんどなかった。唐突に死を知らされ、「なぜ、もっと話しておかなかったのか」と後悔が残った。

 年忌法要で親族が集まるたび、叔母は彼の思い出を語り、涙を流す。子どもの頃の笑い話が、いつの間にか涙に変わっていく。その姿を見るのはつらかったが、他者と悲しみを共有するこうしたひとときが、グリーフ(悲嘆)ケアにつながっていたのではないかと思い当たった。

 コロナ禍の今、「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」を合言葉に、葬儀や法要が縮小されつつある。感染症で亡くなった故人と、最期の対面すら果たせなかった遺族もいる。こうした傾向が、寺院消滅に拍車を掛けるのではないかと懸念する宗教者は多い。

 だが、死や別れを誰もが意識せざるを得ない今だからこそ、他者と関わることに意味があるのではないだろうか。「宗教を必要としない世界の方が、実は幸せなのかもしれない。それでも人が宗教を求めるのは、大切な人を亡くす悲しみに耐えられないからだ」。そう語り、遺族らのつながりを模索する瑞岩寺住職の姿に、人との縁を見つめ直す機会をいただいた。

(文化時報2020年6月27日号から再構成)
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知性なくして信仰なし 迷走の20代、行き着いた先は

 「目に見えないものを大切にするためには、知性が必要だ」。浄土宗阿弥陀寺(奈良市)の森圭介住職(44)はそう語る。英語の教員免許と浄土宗教師資格を取得しながらも、マスコミ業界への就職を希望した20代を経て、行き着いた先は学習塾の開設だった。学力低下が宗教離れを招いている、との持論で活動を続けている。(大橋学修)

浄土宗阿弥陀寺の森圭介住職

マスコミか会計士か

 父は上宮学園の教員で阿弥陀寺の僧侶。息子を無理に僧侶の道へ導こうとするのではなく、「勉強を重ね、自分の力でのし上がれ」との教育方針だったという。

 森氏自身は清風中学・高校を経て、関西学院大学文学部に進学。マスコミ業界を目指して就職活動をしたが、失敗した。いったん休学し、英国東部オックスフォードの語学学校に留学。国際感覚をアピールして再挑戦したが、思うような結果は得られなかった。

 そんな折に、大手商社で勤務する高校時代の旧友から、ゴルフに誘われた。上場企業の重役だった旧友の父も加わり、移動中の車内では親子で経済について議論していた。全く付いていけず、自らの不明を恥じた。当時流行だった米国の公認会計士を目指せば、社会のことも分かるし、留学経験との整合もとれると考えた。ただ、このままでは格好がつかないし、収入もない。寺の法務を手伝うことで立場を取り繕おうとした。29歳になっていた。

 当時住職だった祖父は老いを深め、父は教員の仕事が忙しかった。いい口実になったが、公認会計士にはなれなかった。

英会話講師で目覚め

 僧侶資格は大学在学中に取っていた。進学時に取得するよう父に命じられていたからだ。夏季休暇中に浄土宗が開催する少僧都養成講座に入行し、大学4年のときに伝宗伝戒道場=用語解説=を満行して浄土宗教師となった。

 寺に入ったころ、大阪・西梅田で英会話教室を開こうとしていた友人から、講師として手伝ってほしいと声が掛かった。当初はビジネスマン向けで展開していたが、方向転換して奈良市内の高級住宅街で子ども向けの教室を開設。これが当たった。

 子どもたちの英語の成績が伸び、信頼を得るようになった一方、英語以外の成績が悪いと相談を受けるようになった。特別授業として、ほかの教科も教えるようになった。父と同じく、教えることが好きな自分に気付いた。

教育と寺院を融合

 自坊のことを考えるようになったのは、少僧都養成講座の同窓会「和合会」に参加していたから。寺院が地域に果たすべき役割や教えを伝えていくことの大切さを、仲間たちから学んだ。

 「なぜ寺には高齢者しか来ないのか。葬儀や法事ばかりでいいのか。本来は、人生のヒントや生きる糧を得られる場ではないのか」

 宗教離れの原因を考えるうち、現代の教育が、考える力を養えていないことに思い当たった。「解答方法を覚えることが中心で、目に見える効果だけを目的にしている」。目に見えないものを想像するためには、知性が必要との考えに至った。

 2015年4月、一念発起して「ならまち寺子屋学房」を開設した。コンセプトは「主体的に学ぶ姿勢を養う」。一般的な学習塾と異なり、寺子屋は教材を提供しない。学校やほかの学習塾の宿題を基に、課題を与える仕組みとした。

 短期的な成績アップを求められれば、一般の学習塾に通うことを勧める。「なぜ自分の答えが間違っているのか、理由を自分で追究してもらうことが大切。その理由に納得できたときに得られる喜びが、次の課題に向かう力になる」と、狙いを語る。

 寺子屋の開設と同時に、地蔵盆を復活させた。目に見えないものを想像する力を鍛えようと、紙芝居をしたり、法話を行ったり。将来は、セミナーや講演会など大人を対象にした寺子屋も開き、子ども向けと融合させる構想もある。

 知性を養った先には、何があるのか。森氏は言う。

 「人間は完璧ではない。自分が凡夫=用語解説=だと自覚することで、人を許せるし、寛容になる。その不完全さを認識するからこそ、阿弥陀さまの教えがありがたく感じられる」
         ◇
【用語解説】伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 浄土宗教師になるための道場。加行、加行道場ともいう。

【用語解説】凡夫(ぼんぶ=仏教全般)
 仏教の道理を理解しない者、あるいは世俗的な事柄にひたる俗人。

(文化時報2020年6月24日号から再構成)
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釜石の絆、神社に生かす 「弔いの神主」村上浩継さん

 坂本龍馬の葬儀を神道式で行ったことで知られる神社がある。京都市東山区の霊明神社。第9世神主の村上浩継氏(41)は、神社の葬儀「神道霊祭」を営む同神社の家系に生まれながら、東日本大震災の被災地に移住し、被災者と共に復興への道を歩んできた。〝弔いの神主〟は、神社の役割を見つめ直している。(大橋学修)

村上浩継(むらかみ・ひろつぐ) 1979年5月生まれ。滋賀県立大学大学院環境科学研究科の博士前期課程を満期退学した後、学校法人大和学園に就職。2014年から岩手県釜石市の臨時職員として就業するかたわら、地域振興を目指したボランティア活動を展開。19 年4月に京都に戻り、宗教法人神社本教を包括法人とする霊明神社の第9世神主に就任した。趣味は読書と映画鑑賞。独身。

震災後の無力感

 滋賀県立大学大学院で環境社会計画を専攻する傍ら、神職の資格を取得。満期退学後、調理師などの専門学校に就職し、マーケティング部門に配属された。広報活動や、高校の進路指導の教員らに情報提供する仕事で頭角を現し、部長職まで昇進した。

 2011年3月11日は、出張で出雲方面に向かっていた。気温が下がり、雪がちらつく悪天候。岡山県から山陰地方への峠越えは、ノーマルタイヤの社用車には過酷だった。坂道でスリップを繰り返し、死を覚悟した。

 なんとか出張先に到着し、遅めの昼食を取っているときに、ニュースで地震発生を知った。「こんな所にいる場合ではない」。大急ぎで自宅に引き返した。

 死を実感した日に震災が起きたことに、運命的なものを感じていた。ボランティアへの参加を切望したが、職場の多忙な業務から離れられない。ようやく条件が整ったのは、翌年の夏だった。

 訪れた宮城県南三陸町は当時、がれきがおおむね撤去されていたものの、復興は進んでいなかった。「数日間で帰らざるを得ないボランティア活動では、何もできない」。無力感が募った。

仮設住宅に転居

 「自分には、何ができるのか」。そう考えていたところに、岩手県釜石市役所が、広報部門で有期雇用の臨時職員を募集していることを知った。「自分には被災地と何のつながりもないが、広報なら今のスキルで支援できる」。両親の反対を押し切り、専門学校を退職した。

 転居先は、仮設住宅だった。被災者以外は住んでいなかった。市役所の上司ですら、溶け込めるかどうか心配したが、住民たちは「わざわざ復興のために来てくれてありがとう」と、温かく迎え入れてくれた。労働者が全国から集まる製鉄所のまちならではの寛容さだった。

 配属されたのは、広報部門ではなく、広聴係。職員の退職に伴い、配属先が変更されていた。窓口で市民の意見や要望を受け付けたり、担当部門へフィードバックしたりといった仕事が中心だった。それでも、広報紙やホームページに関連する業務に携わることができた。

 地域情報を発信するために市内各地を取材するうち、気付いたことがあった。「現地の活動が、外部に伝わっていない」。そういえば、震災からわずか1年後でも、京都市内で被災地の話題になることはめっきり減っていた。

 首都圏からボランティアで来た人が「釜石は元気がない」と話すことにも違和感があった。「東京と比べれば確かににぎやかではないが、小さいなりに活気のあるまち。地域のことが理解されていない」

 釜石は、東日本大震災の前にも、1896年の明治三陸地震や1933年の昭和三陸地震で津波に襲われ、太平洋戦争末期には米英から2度の艦砲射撃を受けた。人々には、甚大な被害を受けるたびに立ち上がる力強さがあった。

 地域の情報を、地域の人々が、地域の外に届けることが大切ではないのか。取材先で知り合った有志と共に、広報の勉強会を立ち上げた。

 こうした関わり合いが、京都に戻ってから新しいことを始めるヒントになった。釜石と京都、どちらの活動にも共通する原点は、「自分には何ができるのか」という飽くなき自問だった。

事業を始めたものの… 

 引き続き仮設住宅で暮らしながら、復興を目指して地域の情報発信に取り組んだ。大学院でワークショップの運営などを通じた市民の場づくりを研究したことや、前の勤務先でマーケティングを担当した経験を生かし、さまざまな人々と交流した。

 地元の人から、風光明媚な知られざる名所として、釜石市の尾崎半島を紹介された。「観光拠点として、地域活性化につなげられないだろうか」。トレッキングコースを整備する資金を捻出しようと、観光客に現地を案内する事業を始めた。

 だが、事業が軌道に乗りはじめた17年5月、尾崎半島で森林火災が発生した。鎮圧までに8日を要し、延焼面積は阪神甲子園球場107個分に相当する413㌶余りと、前年の全国の森林消失面積を上回る大規模な火災となった。

 観光開発は振り出しに戻ったが、めげることなく地元の森林組合と協力し、復旧に取り組むことにした。

釜石のため、京都へ

 市役所での雇用は3年が期限だったが、その後は1年ごとに更新できた。2度の延長を経て、6年目を前に退職を決めた。全国の自治体から派遣されていた職員が撤退する一方、業務量は減っておらず、市役所は多忙を極めていた。上司をはじめ、周囲からは一様に引き止められた。

 「自分がこのまま定住するなら、残ってもよかった。だが、いずれは神社のために京都に帰らなければならなかった。復興ではなく市役所の通常業務のために残るのは、地域の雇用を奪うことになると思った」

 19年4月に京都へ戻った。神主として祭事を行いながら、一般企業に就職することを考えた。「社会問題に関われる仕事はないだろうか。釜石にいた頃と同じぐらいの熱量で取り組めることはないか」

 釜石の仮設住宅は、ばらばらの地域から被災者が入居していた。住んでいた地域で祭事が行われる際は、神社に集まった。神社が地域社会を支える役割を果たし、心のよりどころとなっていた。

 「外に求めなくてもいい。足元に神社があるじゃないか」

〝ソーシャル神社〟を目指す

 霊明神社は、神道を信仰した村上都愷が、1809(文化6)年に創建した。寺請制度=用語解説=で統制された時代に、神社が弔いの儀式を営むことは難しかったが、全てを神に委ねるとする精神「惟神(かんながら)の道」を徹底するため、神道式の葬儀「神道葬祭」を始めた。

 霊明神社には、氏子がいない。坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの葬儀を行ったことで知られるものの、一般参拝者も少ない。ただ、「神道霊祭」を行うことから墓地を持っており、寺院の檀信徒に相当する「社中」が存在する。年忌法要に当たる「年霊祭」も行っている。

 ここからもっと、地域に開かれた神社になることはできないか。「霊明神社を、人々のよりどころにしたい。社会のために存在する〝ソーシャル神社〟にしたい」

 いろいろな人々が神社の座敷で思いを語れるイベント「霊明の縁むすび」を、毎月開催するようになった。最初は、知人を通じた参加者が主だったが、会員制交流サイト「フェイスブック」や神社のホームページで告知すると、これまで関わりのなかった人も集まるようになった。

 弔いの儀式を営むことも、人々のよりどころとして神社を位置付けることも、村上氏にとっては同じことなのだという。

 「祓うという行為には、二つの意味がある。一つは、未練を祓って神になること。もう一つは、残された人の悲しみを祓うこと」

 たとえ神道が死を穢けがれと捉えているとしても、弔いは必要だ。亡くした人が大切であればあるほど、悲しみやつらさは大きい。そして、神社は心のよりどころになる―。こうしたことも、釜石で学んできた。

 「神道にはできないとされてきた葬儀を行った神社だからこそ、できることはたくさんある。誰かの居場所になれるようにしたい」。弔いの神主の挑戦は、これからも続く。

【用語解説】寺請制度(てらうけせいど)
 江戸幕府の宗教政策で、キリシタンなど禁制宗派の信者でないことを、寺院に証明させた制度。葬祭を通じて檀那寺(だんなでら)と檀家(だんか)の関係を固定する「寺壇制度」の確立につながった。

(文化時報2020年6月17日号・20日号から再構成)
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出家したアパレルマン「冷たい社会、教えで変わる」

 阪神・淡路大震災を転機にアパレルマンから僧侶に転身した滋賀県草津市の浄土宗教善寺住職、橋本篤典氏(51)は「今の社会は冷たい」と考えている。死を身近に感じ、認定こども園の設立に奔走した末に行き着いたのは、市場原理に支配されて自己責任を問われる社会の傾向が、教えによって変わるという境地だった。(大橋学修)

震災と僧侶への不信

 橋本氏は、大手石油会社に勤める会社員を父として、1969年1月に神戸市で生まれた。中学2年の時、父が42歳で急逝。急性白血病だった。「人は死ぬ。生きることは当たり前ではない」。初めて死を実感した。

 亡き父の早期退職金や保険金のおかげで、生活に窮することなく、甲南大学に進学できた。当時はバブル絶頂期で、アルバイトで稼いでは浪費する毎日。就職活動も、売り手市場の恩恵を受け、希望した大手アパレル企業に採用された。

 入社4年目で、希望していた海外での買い付けを行う部署への配属が決まったが、配属先での仕事が始まる矢先の95年1月、阪神・淡路大震災が起きた。

 友人ががれきの下敷きになって絶命し、祖父も一度は助け出されたものの、地震翌日に亡くなった。そんなときに、大部分が崩落した百貨店の中から商品を引き揚げてくるよう会社から命令された。何もかもが嫌になり、退職した。

 妻の父で当時、教善寺の住職を務めていた芝原正道氏が、悩みや葛藤を受け止めてくれた。そして「こんな生き方もある」と示されたのが、僧侶になる道だった。

 実父を亡くしたとき、菩提寺の僧侶は読経して帰るだけで、父がどこに行ったのかという疑問には答えてくれなかった。それ以来、僧侶に対して不信感を抱えてきたが、義父の受け答えによって変わるのを感じた。

 震災翌年から3年間にわたり、浄土宗の僧侶養成を行う少僧都養成講座に入行。29歳で伝宗伝戒道場=用語解説=を満行した。さらに布教師養成講座へ通い詰め、信仰の深まりを感じた。

 「僧侶となって、日々のストレスを感じることが少なくなった。伝えようとする教えに噓をつかなくていいし、毎日のお念仏の実践で私自身が救われたから」と語る。

こども園で伝わる教え

 教善寺は当時、宗教法人の無認可保育園を運営していたが、赤字続きで閉園が決まっていた。ところが、ベッドタウンとして草津市の人口が急増し、待機児童が増えてきたことから、園の存続が地域から嘱望されるようになり、橋本氏に経営が託された。

 2003年5月に社会福祉法人三宝会を設立し、翌04年4月に公設民営の幼保連携型認定こども園「ののみち保育園」を開園。「手を合わす心、育てよう」を基本理念に、ビジネスの世界で活躍していた頃の手腕を生かそうとした。

 人を敬い、共感する。相手の幸せを願い、未来に希望を持つ―。これら全てが合掌に込められていると考え、基本理念を定めたが、浸透するまで10年を要した。教えを説く職員研修を開き、園児には毎週火曜に本堂で礼拝を行うなど、試行錯誤を繰り返した。

 経営に翻弄され、思うように布教活動に取り組めない心苦しさがあった。そんなとき、布教師仲間にこう言われた。「園児や保護者、職員に、毎日布教しているじゃないですか」

 その言葉に、救われた。「子どもに伝えることも、他寺に行って布教するのも、檀信徒への法話も、職員に理念を説明するのも、すべて同じお念仏のみ教えじゃないか」と気付かされた。

 最近、職員たちが「私たちはみんな、人を傷つけ自分も傷つきながら、一生を過ごしていく。だって、凡夫=用語解説=やからね」と話し合っているのを耳にした。教えに基づく生き方が、伝わっていると実感できた。

 「この世が娑婆=用語解説=と分かるだけで、世の中の見方は変わる」。そう考えている橋本氏は、こう強調する。「弱者の気持ちになり、自分のためではなく、得たものを他人や社会に返していける人を育てなければならない」
         ◇
【用語解説】伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 浄土宗教師になるための道場。加行、加行道場ともいう。

【用語解説】凡夫(ぼんぶ=仏教全般)
 仏教の道理を理解しない者、あるいは世俗的な事柄にひたる俗人。

【用語解説】娑婆(しゃば=仏教全般)
 汚辱と苦しみに満ちた現世を示す言葉。サンスクリット語で忍耐を表す言葉を音写したもので、浄土の対比語として用いられるため、忍土とも漢訳される。

(文化時報2020年6月10日号から再構成)
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「自他の縁、見つめ直せ」コロナ後の宗教界に提言

 国際宗教同志会(IRF、芳村正徳会長)は3日、東京工業大学の弓山達也教授(宗教学)を講師に招き、講演会「コロナ禍中/後の日本の宗教はどうなる」を金光教泉尾教会(大阪市大正区)で開催した。僧侶や神職ら17人が出席し、コロナ後の社会で宗教者が果たすべき役割について語り合った。

弓山達也教授

 【講演・質疑応答のポイント】
・過去の疫病で人々は宗教にすがった
・オンラインで宗教が身近になった
・宗教界独自の「新しい生活様式」が必要
・コロナ後の社会動向を察知せよ

 弓山教授は新興宗教ブームの1980年代に大学へ進学し、自身も複数の教団に傾倒した経験がある。人を引き付ける宗教の力に関心を持ち、大学院では宗教現象の研究に没頭。現在は、ボランティアや社会貢献など「宗教の社会的な力」について研究している。

 冒頭で弓山教授は、スペイン風邪が流行した大正期に大本や太霊道=用語解説=が台頭したことなどを例に、「疫病によって社会不安が広がると、人々は宗教にすがり、霊的な導きを求める傾向がある」と分析した。

 さらに、終戦直後の50年代に提唱された新生活運動=用語解説=を挙げ、「冠婚葬祭の縮小など、生活の簡略化・合理化を求める運動が、国難のたびに政府主導で行われてきた」と指摘。コロナ禍を受けた「新しい生活様式」の提唱も、これと同質の動きであると述べた。

 「人と人とが密接に関わり合うことは、宗教の本質でもある。それを排除する動きは、宗教界にとってひとごとではない」と強調。「お上の指示を受け入れるだけでなく、独自の『新しい生活様式』を発信していく必要がある」と提言した。

 弓山教授は東日本大震災による被災者のライフスタイルや価値観の変化に着目している。被災地で目にしたのは、独自の追悼行事や祭礼を生み出し、誰に言われるでもなく「菩薩のように」隣人を支える市民の姿だったという。

 コロナ後の社会にも同様に「市民主体の新しい生き方、物事の感じ方が生まれてくる」と予測し、「宗教者は、そうした社会の動きを敏感に察知すべきだ」と語った。具体的には、接触や移動の制約から「障害を抱えた人が日常的に味わう不自由さ」に目を向け、葬儀や法要の縮小から「人の生死」「死者への思慕」について考えるべきだと指摘。「自他を結ぶ縁の在り方を考え、発信することが、宗教者に求められる〝霊的な力〟ではないか」と締めくくった。

一人の人間として社会と向き合う

 講演に対し、宗教者からは率直な質問が寄せられた。高野山真言宗観音院(堺市南区)の大西龍心住職は、東大寺が呼び掛けた「正午の祈り」に参加。防犯を理由に閉じていた自坊の門を「祈り」の時間帯に合わせて開けるようにしたところ、目に見えて参拝者が増加したという。

講演会はソーシャルディスタンスを確保して行われた

 その経験から「不安なときこそ民衆は宗教を求める」との弓山教授の見解に共感を示しつつ、「宗教に対し、一般の方々は具体的に何を求めているのか」と問うた。

 弓山教授は「人々が宗教施設を訪れたい、宗教者の話を聞いてみたいという思いは常にある」と回答。一方で「拝観時間の制限によってお寺に来られない人や、僧侶に対して心理的なハードルの高さを感じる人も多い」と指摘した。

 そうしたハードルが、テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」などのオンラインツールによって解消されつつあるという。ネット法要に多くの参拝者が集まった事例を挙げ「時間や距離に関係なく、宗教者と一対一で語り合えることは、一般人にとって大きな魅力」と語った。

 一方、生島神社(兵庫県尼崎市)の上村宜道宮司は、「オンラインの導入に抵抗を感じる宗教者も多い」と指摘した。自身の周りでも、オンライン祈禱を提案する声が聞かれたが、「祈りの場でのネットの利用はよくないことだという見解が、神社界の暗黙の了解となっている」と話す。その上で「参拝者の立場で、ネットを介した信仰をどう考えるか」と見解を問うた。

 弓山教授は「オンラインでできること、できないことについて、自分の考えを参拝者に説明するチャンスではないか」と回答。オンラインツールの普及により、宗教者が「一人の人間として一般人と向き合うことができるようになった」とし、「伝統にとらわれず自分の言葉で説明すれば、参拝者からも優れた理解が得られるはずだ」と話した。(安岡遥)

【用語解説】太霊道(たいれいどう)
田中守平(1884~1928)が創始した霊術教団。修行によって読心術などの霊能の開花を目指す。大正~昭和初期にかけて大流行したが、田中の死をきっかけに消滅した。
     ◇
【用語解説】新生活運動(しんせいかつうんどう)
第2次世界大戦後の生活水準の向上を目的に、鳩山一郎内閣が1955年に提唱した運動。冠婚葬祭の簡略化、封建的因習の排除などが主な内容。

(文化時報2020年6月13日号から再構成)
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動じないクマのような精神力 櫻井随峰氏

 西山浄土宗の櫻井随峰前宗務総長は混乱期に宗務行政を担い、昨年9月の退任まで「火中の栗を拾わされた」とささやかれた。公立中学校の教師を経て出家した異色の元宗門トップ。新型コロナウイルスの感染拡大に対しても「クマが冬眠するように過ごすしかない」と動じない。混乱期を生き抜く強靭な精神力は、どのように培われたのだろうか。(大橋学修)

西山浄土宗の櫻井随峰前宗務総長

平穏な宗門取り戻す

 宗派や本山の仕事とは、無縁の半生を歩んできた。

 宗政の世界に身を置いた直接のきっかけは、僧侶資格を得るための「加行道場」で指導者になったこと。上司に当たる監督の日下俊精氏が宗務総長に選出され、数年後に自身も教学部長として内局に引き入れられた。

 管長・法主の任期や本山墓地拡張計画を巡り、宗議会が荒れていた時代。日下氏が任期満了で宗務総長を退任すると、今度は櫻井氏にお鉢が回ってきた。課題は山積していた。

 2016年の就任当初は財政再建のため、支出抑制を断行。一方で、総本山光明寺(京都府長岡京市)の拝観事業を拡大させ、宗門に回付金として還流させる道筋を付けた。近年は度重なる災害からの復旧や防災対策にも取り組んだ。「平穏無事な状態を取り戻すことはできた」と振り返る。

 コロナ禍では、御忌大会などの重要な法要を想定外の形で行ったが、泰然自若としていた。「うまくいかないときは、じっと我慢しながら、クマが冬眠するように過ごすしかない。クマは、必要があるから冬眠するのであって、ピンチのときにもやるべきことはある」

校内暴力には仏教で

 新潟県魚沼市出身。父は労働基準監督署で勤務していた。少年時代は、国のために身命をなげうつことをいとわない偉人たちの伝記や小説を読みあさり、「国士」になることを夢見ていた。

 高校卒業後は就職を考えていたが、進学を勧められて思い直した。「新選組の本拠があった京都に行こう」。京都市中京区の花園大学に進学した。何が国士なのか分かっていなかったが、夢は持ち続けていた。

 当時の花園大学は、後に臨済宗妙心寺派の管長を務めた故山田無文老師の学長最後の年。周囲からは僧堂に入ることを勧められたが、僧侶になろうとは微塵も思わなかった。「老師は輝いていて、神に近い人だと感じた。自分にはとてもなれない」

 卒業後の1982年4月から、教員として大阪市大正区の中学校に赴任した。校内暴力が荒れ狂っていたころで、かわいがっていた生徒から角材で襲われたことも。連日の飲酒とストレスで肝機能障害を患った。

 精神的支柱を求め、仏教に希望を見いだした。教員研修旅行で、釈尊が初めて法を説いたインドのサールナートを訪れたことも、何かの縁だった。「救いでなく、悟りを求めていた。暴力に対抗できるのは、それしかないと思っていた」

出会い―妻・師匠・教え

 30歳になる直前、妻と出会った。西山浄土宗の僧侶で宗門随一の説教師と評された故橋本随暢師の三女。師は、4人いた娘の夫全員が出家するなど影響力のある僧侶だった。

 兄弟子が苦しみながらも救いを求める姿に、心を動かされた。嘉禄の法難=用語解説=に行う念仏行脚に参加し、法然上人と心が通じ合った気がした。結婚して1年たたないころの妻には、事後承諾で出家。総本山光明寺の随身=用語解説=となった。

 その後、薬善寺(和歌山市)の住職となったが、「釈尊はありがたくても、阿弥陀如来はわからない」と感じていた。常光寺(京都府長岡京市)の菅田祐凖氏の元に通い詰めて薫陶を受け、阿弥陀仏の存在に対する疑いがなくなった。救れていることに気付いた。ただ、社会を見渡すと、救われない人々ばかりだった。「自分は救われているのに、救われていない人が、ばかに見えたり、かわいそうに思えたりした」という。

救いは特別でない

 21年間に及んだ「加行道場」の指導者生活では、歴代法主の講釈を聞く機会に恵まれた。総本山光明寺第77世・故須佐晋龍法主の「要懴悔=用語解説=が一番ありがたい」という言葉が頭に残った。

 要懴悔の一節に「勝縁勝境悉現前(しょうえんしょうきょうしつげんぜん)」という言葉がある。優れた縁と素晴らしい境地が、ことごとく目の前に現れる、という意味だ。

 「同じ生活をしていても、満足する人もいれば、不満を持つ人もいる。どのような状況でも、念仏を唱えていれば『勝縁勝境悉現前』なのだ」。そう感じるようになって、自分だけが救われているという高慢な考えも変わった。49歳のときだ。

 「自分が救われることは特別なことだと思っていた。そうではなく、たまたま、その縁にあずかっていると知った」

 花園大学で山田老師の後に学長になった故大森曹玄師は、「もはや国士は誰一人としていない」と語ったという。

 国士になるという夢は、いつの間にか消えていた。今の自分を国士だとも思っていない。「この国に生まれて、ただ幸せを感じている。身を粉にして働く人々を見ると頭が下がる思いがするし、僧侶の姿はかすむ」。そう笑った。
             ◇
【用語解説】嘉禄の法難(かろくのほうなん=浄土宗など)
 1227(嘉禄3)年に法然上人門下が弾圧された事件。上人の祖廟を壊して遺骸を鴨川に流そうと画策され、門下の高弟が配流された。上人没後で最大の法難。

【用語解説】随身(ずいしん=仏教全般)
 本山などで作務に従事しながら、法務や教えを学ぶ初心の僧侶。

【用語解説】要懴悔(ようさんげ=西山浄土宗など)
 中国浄土教の大家・善導大師の著書で、往生極楽を願う儀式を定めた『往生礼讃』の抜粋。

(文化時報2020年6月6日号から再構成)
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