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父の事故死、コロナ禍に重ね 浄土宗常楽寺・浦上住職

 「感染者だからと言って、誰にも見送られず火葬場に行くことがあってはならない。より丁寧な葬儀をしたい」。浄土宗常楽寺(兵庫県尼崎市)の浦上博隆住職(66)がそう語るのには、理由がある。15歳のとき、父を交通事故で亡くした。その体験を、新型コロナウイルス感染症で近親者を亡くした遺族に重ね、葬儀の大切さを説く。「現代人は、目に見えるものしか信用しない傾向にある。だからこそ、思いを説かなければならない」と語る。(大橋学修)

「感染者に丁寧な葬儀を」と話す浄土宗常楽寺の浦上博隆住職


お迎えを実感

 常楽寺は、1504(永正元)年に創建された。尼崎城築城の際に現在地に移されたが、太平洋戦争の空襲で全焼。焼け野原から廃材を集めて建てたバラックの寺院で、浦上氏は生まれ育った。「ボロボロの穴だらけで、雨が降ると屋根の波板がバラバラと音をたてた。阿弥陀さんの三方に金の紙を貼っただけの貧乏な寺だった」

 1966年に寺を再建した父は、その数年後に逝去した。バイクを運転中、出合い頭の事故に遭った。手術は行ったが、手の施しようのない状態だった。「なんでこんなことに」。浦上氏が中学3年の時だった。

 2日後に息を引き取る直前、父がいびきをかき始めた。折しも、窓から差し込んだ西日が体全体を覆い始めた。お迎えが来たと感じた。「阿弥陀さんにすがるしかない。楽に浄土へ旅立ってほしい」という悲痛な心が救われた。

 父の代わりに、関係寺院の住職だった故貴田徹善師が常楽寺を護持し、青年期を過ごした。スタジオミュージシャンを夢見ていたが、さまざまな人々の支えを胸に、僧侶になることを決めた。

 父から、読経の指導を受けたことはなかった。唯一の思い出は中学1年の時、お盆の棚経に連れていかれた記憶。口伝する陀羅尼=用語解説=を、母が聞き取って経本に書き留めてくれていた。後ろ姿を見て倣えという姿勢だった。

大病を患って

 伝宗伝戒道場=用語解説=を終えて住職になると、30歳ごろで「説教の天才」と呼ばれた故伊藤教導師に見込まれた。「布教師にならないか」。そう声を掛けられたが、父が再建した安普請の本堂と庫裏をもう一度建て直すなど、30代は法務に振り回される毎日だった。

 42歳になり、大病を患った。左耳からウイルスが入り、脳に達しかかって入院。顔の左半分がまひし、命が危ぶまれた。何とか一命をとりとめて退院し、本堂でお勤めをしていたとき、阿弥陀仏が両手を広げて近づいてくるのを感じた。涙が出た。「頂いた命だと思った。その命を生かすために、何かできないか」。布教師になることを決めた。

 総本山知恩院布教師会の試験を通過したのは、法然上人が開宗した年齢と同じ43歳のとき。以降は、布教師の道を突き進んだ。

念仏から安寧へ

 近年の社会を見て思うことがある。「寺院は檀信徒のものなのに、住職のものと捉えられるようになった。われわれがちゃんと説明しておくべきだった」。寺院へのイメージや、宗教に対する考え方が変わりゆく状況を「大河の流れのよう」と表現し、激しくはなくてもあらがえない力があると感じている。

 新型コロナウイルス感染症で亡くなった人の葬儀については、人一倍憂慮している。「遺族の心が救われるように、丁寧に行うことが大切。ましてや、亡くなった方を物のように扱うのはやりきれない。できることとできないことがあったとしても、せめて普通に営んでほしい」

 葬儀が簡素化されれば、信仰心が希薄になってしまう。父を送ったあのときの経験を持つ者として、伝えたい思いがある。

 例えば、「不殺生戒=用語解説=を破らなければ生きられない自分であっても、往生浄土を得る」ということ。日々の念仏の中から、こうした教えを感じ取ることが、社会の安寧や安心感につながるのだという。

 「この世に迎合することになるかもしれないが、世間の人々がファンになってくれるような僧侶でなくてはならない」。自らをそう戒める。大切なことを、伝え続けるために。
          ◇
【用語解説】
 陀羅尼(だらに=仏教全般)
 サンスクリット語の「ダーラニー」の音写。記憶する力、保持する力という意味から、呪文の意味として使われるようになった。

 伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 僧階を持つ僧侶になるための道場。「加行」「加行道場」とも言う。

 不殺生戒(ふせっしょうかい=仏教全般)
 生き物を故意に殺してはならないという戒。仏教徒が守るべき五戒の一つ。

(文化時報2020年5月13日号から再構成)
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「門付け」で月参り 昔ながらで3密避ける

 浄土宗浄福寺(京都市上京区)は、多くの寺院が新型コロナウイルスの感染拡大に配慮して月参りを中止する中、玄関前や庭先で読経する「門付け(かどづけ)」を開始した。菅原好規住職は「法然上人は屋外で布教活動を行っておられた。檀信徒に話すと『昔に戻ったのですね』と安心した顔をみせてくれた。月参りで思い悩む僧侶に知ってもらいたい」と話す。

玄関や庭で読経する「門付け」


 「門付け」は、陰陽師に源流を持つ声聞師(しょうもじ)が、各家の門前で読経や曲舞(くせまい)を行うことで金銭を得た慣習。釈尊の弟子たちは、街を巡る頭陀行(ずだぎょう)を行い、いわゆる鎌倉新仏教の多くの祖師は、辻説法で教えを説いていた歴史を持つ。

 浄福寺では、政府による緊急事態宣言の発令後、年忌法要や月参りの中止・延期を申し入れる檀信徒が増加。外出自粛要請の長期化を感じていた菅原住職は「信仰の基本となる月参りの習慣がなくなれば、身近に話をしながら教化する機会を失うと思い、悩んでいた」と話す。

 4月20日、檀信徒宅へ月参りに移動する道中に「庭や玄関で読経すれば密閉、密集、密接の3密を回避できる」と思いついた。1軒目は庭で、2軒目は玄関で読経。江戸時代以前の僧侶が、野外で布教活動をしていたことを思い浮かべながら称名=用語解説=した。檀信徒も「これなら安心」と喜んだという。

 年忌法要についても、堂外の広縁部分に椅子を並べて3密を回避することにし、全檀信徒に提案することを決めた。多くの人が集まる行事では、動画投稿サイト「ユーチューブ」で配信することも考えている。菅原住職は「遠方にお住まいで、お寺に参拝しにくい人にお説法を届ける機会になるのではないか」と話す。

 【用語解説】称名(しょうみょう=浄土宗、浄土真宗など)
 念仏をとなえること。浄土教における称名念仏は、「南無阿弥陀仏」の六字名号をとなえる行法のことを言う。

(文化時報2020年5月9日号から再構成)
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オンライン法要は万能か 住職の違った真意

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、法要や行事をインターネットで中継する寺院が増えている。テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を利用して法要の同時配信を始めた曹洞宗瑞岩寺(群馬県太田市、長谷川俊道住職)もその一つ。法事の新たな選択肢として複数のメディアが報じたが、長谷川住職の真意は〝ネット法要〟の普及ではなかったという。(安岡遥)
 

(写真と本文は関係ありません)


施主がスマホ撮影

 瑞岩寺の広い本堂には、長谷川住職と施主の姿のみ。粛々と読経する長谷川住職を、施主がスマートフォンで撮影し、「Zoom」を通じて配信する。自宅から見守る親族が、画面越しに手を合わせた。

 感染拡大の影響で、通常は月に10件ほどある法事の依頼が大幅に減少した。移動中の感染を懸念して遠方の親族を招くことができず、施主と2人だけの寂しい法事になることもあったという。

 長谷川住職は、普段から会員制交流サイト(SNS)で檀信徒と交流するなど、ネットに明るい。「遺族にとって法事は大切な節目。お寺に来られなくても参加できれば」との思いから「Zoom」の利用を提案し、これまで数件の法要をネット配信した。

 新型コロナウイルス感染症の有効な治療法の確立には1年以上を要するといわれる。長谷川住職は「お寺にとっても1~2年は厳しい状況が続く」と予測し、「宗派や政府の対応を待っていては遅い。さまざまなツールを駆使し、臨機応変に対応すべきだ」と話す。

「仏さまに失礼では」

 長谷川住職は、コロナ禍の終息後も、離郷檀信徒や入院中の高齢者を対象に「Zoom」の活用を検討している。「親族全員が地元で暮らしていた時代と違い、今は法事で集まるのも容易ではない。お寺に来られない事情のある檀信徒の選択肢になれば」。施主からの希望があれば、今後も同時配信を受け付ける見通しだ。

 だが、課題は多い。スマートフォンやパソコンに不慣れな高齢者にとっては、「Zoom」のハードルは高い。「大切な法要を撮影で済ませるなど、仏さまに失礼ではないか」と戸惑いの声もあるという。

 対面の法要でしか得られない経験もある。「遺族の悲しみは、体を動かすことで少しずつ癒やされていく」。供花や供物を買いに出掛け、お寺に足を運ぶという行為を促せば、法要もグリーフ(悲嘆)ケアになる。長谷川住職も「私自身、遺族とじかに顔を合わせることで、心が通じ合う」と語る。

「普及させたくない」

 ネット法要は選択肢を増やすが、実際に集まって行う法要の良さはなくなる。長谷川住職は「現状ではネット法要が最善だが、いつでも誰にでも通用する万能の策ではない。選択肢の一つではあっても、普及させたいという思いは一切ない」と断言する。

 その上で、コロナ禍の終息後には「法要を行う必要があるのか、そもそも宗教の存在意義は何なのか、ということが改めて問われる」と指摘。「諸行無常というお釈迦さまの教え通り、予想すらしなかった事態が今後も必ず起こる。宗教者に必要なのは、そのときにできる最善のことを選択する力だ」と強調した。

(文化時報2020年5月2日号から再構成)
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生きる喜び彫って伝える…「仏師僧」前田昌宏氏の波瀾万丈な半生

 紀伊水道を望む和歌山県日高町の浄土宗浄土院に所属する仏師僧、前田昌宏氏(47)が仏像を彫り始めたきっかけは、少年時代に起きた盗難事件だった。「仏づくりを通じて、仏の心を伝えていくことが、自分の持ち分」。僧侶であり、仏師でもある前田氏がこうした境地に至るまでには、師の失踪や貧困といった数々の試練を乗り越えねばならなかった。波瀾万丈の半生が、心を打つ仏像を生み出している。(大橋学修)

仏師僧の前田昌宏氏


執念の薬師如来像

 浄土院は、本堂や庫裏のほかにも地蔵堂、大師堂を備えている。少年時代の前田氏は祖父と共に毎朝、仏飯を手に諸堂を巡っては勤行を行っていた。

 中学2年生だった1988年のある日。大師堂に行くと、いつも手を合わせる薬師如来がいない。荘厳仏具が中央に寄せられ、仏像がない不自然さをごまかした痕跡があった。

盗難事件とみて駆け付けた警察官は「戻ってくることはないだろう」と言った。ならば、自分が薬師如来を彫り上げる。そう誓った。

 中学卒業後は、高野山真言宗が運営する高野山高校に進学。入学後初めての美術の授業で、美術の先生が「自分は仏師だ」と自己紹介した。前田氏は授業後、すぐ職員室へ乗り込み、仏像を彫りたいと伝えた。高野山内にある工房に来るよう言われた。

 これ以降、放課後に片道約30分かけて工房に通うことが日課となった。高校3年間、厳しい寮生活の合間を縫って、授業終了後から門限の午後5時までという限られた時間の全てを、仏像制作に費やした。

 最初は、先生が用意した松の木に、盗まれた薬師如来を彫った。1年半がたち、ようやく形を成してきたころに、今度はヒノキ材を与えられた。「これで、もう一度彫り直しなさい」。松の仏像は習作だった。

 それでも卒業までに、仏像本体のほか、台座や後背を何とか彫り上げた。「今から見れば、笑ってしまうような造作」と振り返る薬師如来像は、今も浄土院の大師堂にまつってある。

運転手をしながら

 高校卒業を目前にして、先生が姿を消した。「洞窟で観音さまを彫ってくる。君は、これからも良い仏像をつくるよう励みなさい」。そう言い残したまま、今も所在は知れない。

 「もし先生がそのままおられれば、高野山にとどまっていたかもしれない」

 佛教大学に進学し、仏師として活動するため、資金作りのアルバイトに励んだ。午前3時に起床し、京都市中央卸売市場から商品を配送するトラックの運転手として勤務。午前8時の業務終了後、大学に通った。

 卒業後も、地元での就職を勧める父の反対を振り切り、配送の仕事を続けながら、仏像制作の修行に励んだ。仏師になる夢を捨てきれなかった。
 
 27歳で結婚。共働きだったが、決して豊かな生活とは言えなかった。古くて狭いアパート生活。ふりかけをかけた白米だけで糊口をしのいだこともあった。昼間働きに出ていた妻とは擦れ違いの生活だったが、妻は不平を言わなかった。「絶対に成功させる」と前田氏の背中を押し、材料のヒノキを贈ってくれた。

 そんな折、佛教大学の同級生から「逝去した母に似せた観音像をつくりたいと父が言っている」と相談を受けた。台座を含めて高さ約4尺(約1・2㍍)の観音像の制作を始めたところ、やはり同級生で浄土宗総本山知恩院に奉職する九鬼昌司氏から、こう声を掛けられた。「今、どんな仏像を彫っているのか見せてくれないか」

妻が贈ったヒノキに彫った阿弥陀如来像


 おおむね完成した観音像を知恩院に運んだ。折しも、日本人僧侶らの支援でインド・ブッダガヤに建立した仏心寺を紹介する展示の最終日で、「仏心寺を支援する会」の理事が集まっていた。仏心寺に釈迦如来像を納めようとの計画があったことから、「ボランティアになるけど、彫ってみないか」と誘われた。

実演から教室へ

 時を同じくして、真言宗善通寺派の大本山隨心院(京都市山科区)に働き口が見つかった。法務の手伝いや朱印を書く仕事だったが、拝観受付に実演スペースを設けてもらい、仏心寺の釈迦如来像の制作に打ち込んだ。

 座高90センチの仏像を完成させるまでに1年を要したが、実演は拝観者と触れ合う機会になった。今でも交流が続くファンがいるという。

 仏師として認知されるにつれ、さまざまな依頼が入るようになった。浄土宗極楽寺の古本肇滋住職からは、仏像制作教室の講師になってほしいと頼まれた。常に手元に置いて、最後を迎える時に共に棺に納めてもらう持仏をつくるための教室だった。

 それ以来、全国各地を回り、仏像制作を教えるようになった。「無心に彫っている人の顔は、子どもの笑顔のよう」と語る前田さんは、半生を振り返ってこう感じているという。

 「人生にはつらいこともあるが、彫って仏をつくることを通じて、いろいろな方々に生きる喜びを伝えていければ」

(文化時報2020年4月29日号から再構成)
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「離郷檀信徒」の葬儀仲介 都市と地方の寺結ぶ

浄土宗の葬儀


 浄土宗東京教区は、地方から都心に移り住んだ「離郷檀信徒」の葬儀や年忌法要を、地方の菩提寺に代わって都内の浄土宗教師が営めるように仲介するインターネットシステム「浄土宗東京教区・寺院ネットワーク」(https://samgha.jodo-tokyo.jp/ ) の運用を始めた。

 地方の菩提寺か離郷檀信徒自身が、納めたい布施の金額を入力して申請。条件の合致する教師が自動的に選び出される。依頼者は、受託の意思を示した教師の中から委託先を決める。

 布施の約半分を、離郷檀信徒の菩提寺に「御本尊前」として還流させる。配分の割合は、菩提寺を交えた話し合いで決める。菩提寺が後から判明した場合は、内規に従った金額を菩提寺に納める。

 これまで東京教区では、離郷檀信徒から問い合わせがあるたびに菩提寺に相談するよう伝え、菩提寺が寺院名鑑から委託できそうな寺院を探して個別に法務を依頼していた。

 近年は、インターネットを通じて僧侶を派遣する企業が台頭するなど、伝統仏教教団を取り巻く環境が変化。檀信徒のニーズに組織的に対応する必要があるとして、浄土真宗本願寺派の築地本願寺などで行われている事例を参考にしながら、独自のシステムを構築した。

 西日本でも、過疎地域に菩提寺を持ちながら京阪神に移り住むケースがあり、東京都内と共通した課題がある。愛媛教区の教師は「大阪に移り住んだ檀信徒に対応できていない。寺院ネットワークのような仕組みがあるとありがたい」と語る。

 一方、大阪教区の教師は「法務も教化もすべて都市部の教師が担い、菩提寺はキックバックを得るだけになる。菩提寺が教化しないなら、檀信徒とは何かという話になる」と懸念する。

 宗が「寺院ネットワーク」と同様のシステムを運用すべきだとする声も聞かれるが、京阪神では、檀信徒宅で月命日に読経する「月参り」の習慣が残っており、教化の機会としても機能している。離郷檀信徒の法要を受託し「月参り」も行くようになると、元の菩提寺から離郷檀信徒が離れてしまう懸念がある。

 大阪教区の山北光彦教区長は「大阪教区でも、離郷檀信徒からの問い合わせがあると、菩提寺に相談するようアドバイスしている。東京教区での運用状況を見ながら、今後の対応を考えるべきだろう」と話している。

(文化時報2020年4月18日号から再構成)
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コロナ禍でも法座開催を ガイドラインで“生命線”守る

 ポータルサイト「浄土真宗の法話案内」を運営する真宗大谷派玄照寺(滋賀県東近江市)の瓜生崇住職が、「新型コロナウイルス感染症拡大防止に配慮した法座開催のガイドライン」を提案した。法座を低リスクで開くための対処法などを高田英明医師と監修。浄土真宗各派で法座の自粛や延期が増加する中、ご法義の“生命線”とも言える法座活動の停滞を防ぐよう呼び掛けている。

本願寺津村別院で開かれた「遇法の集い」。法座における聴聞は浄土真宗の生命線だ=2020年1月29日


 ガイドラインは、ウイルスの感染拡大が飛沫感染と接触感染で起こることから、「飛沫は2㍍程度まで」「密集せず適度に換気し、マスクをつける」と基礎知識を提示。大勢の人が一つの物を触らないようにし、小まめな手洗いが必要だと指摘した。

 参拝者には「風邪のような症状がある人は参加を遠慮する」と注意喚起。トイレの際は利用前と利用後の2回手を洗い、自分用のハンカチやタオルを持参するよう呼び掛けた。

 法座を開く側には、消毒用アルコールの準備やいすの間隔に注意し、「できるだけ触る物を減らすため、ドアマンを用意する」「住職や門徒総代が繰り返し参拝者に消毒などを案内する」などの方策を示した。座談会や食事会については延期することを勧めた。

 浄土真宗各派は伝統的に、法座における「聴聞」を重んじてきた。ガイドラインでは、法座の中止について、韓国の宗教行事で感染拡大が起こった例を挙げ、「寺の行事から感染者が出るリスクを考えると、現段階ではやむを得ない措置」と指摘。一方で、「法座は本来簡単に中止すべきではない。条件によっては、十分に注意して開催できないか」としている。

 瓜生住職は「『止めよう』という意見は当然だが、できることもある」と指摘。「宗教者にできるのは、教えを伝えること。人々が不安を抱える時期だからこそ、役割が問われる。リスクを減らす方策を提示することで、法座開催を後押ししたい」と話している。

 【用語解説】聴聞
 浄土真宗では、阿弥陀如来の救いを「聴聞」することを重んじる。宗祖親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)の中で、「楽(この)んで世尊の教を聴聞せん」と記し、説明書きとして加えた左訓(さくん)に「ゆるされてきく、信じてきく」と示した。浄土真宗本願寺派と真宗大谷派で「中興の祖」とされる第8代蓮如上人は、『御一代記聞書』で「聴聞にきはまる」と強調。「聴聞」を「後生の一大事」として、現代までその教えが受け継がれている。

(文化時報2020年3月28日号、4月1日号から再構成)
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「粉河の荒れ寺」再興 廃墟から7年越しの悲願

 約30年間にわたり無住寺院として荒れ果てていた和歌山県紀の川市の真言宗山階派長壽寺(佐々木玄峯住職)が今年4月、再興の節目となる花まつり法要を営んだ。真言宗智山派の大本山髙尾山薬王院から分霊された飯縄大権現の御前立ご本尊を開眼した。本坊の屋根修理などが残るものの、関係者や地元住民らが集まって完全復興を誓った。(春尾悦子)

開眼された長壽寺の御前立ご本尊


安ホテルに寝泊まり

 長壽寺は、JR和歌山線粉河駅から高台へ入ったところにある寺院。前住職の尼僧が約30年前に逝去して以来無住となり、荒廃を極めていた。これを知った佐々木住職が2013年、再興を発願。自ら木を切り、仲間の応援を得て、手作業で修理を始めた。

 佐々木住職の自坊は東京都八王子市の勝楽寺。八王子から通って修理を続けた。屋根が破れ、床は朽ちて、靴を履いたまま歩くしかなかった伽藍に寝泊まりする所などなく、安いホテルに泊まった。

 本堂には荘厳な阿弥陀如来像があったが、いつの時代のものか判明しなかった。由緒来歴などを記したものが、見当たらなかったためだという。隣接した空き家も廃墟と化していたが、山階派の所有物件と分かり、取り壊されていた。

髙尾山から分霊、徒歩練行でお迎え

 再興の途上、復興の象徴として、また参拝者の諸願成就のためにと、新しいご本尊に髙尾山薬王院の飯縄大権現のご分霊を勧請したいと願い出た。「八王子から粉河まで、徒歩練行でお迎えしたい」と、旧知の中原秀英髙尾山薬王院修験部長に相談したところ、大山隆玄貫首の快諾を得て、実現の運びとなった。

 木村龍仏師が、多摩美術大学の講師らの協力を得ながら、向背を入れて高さ2・2㍍になる御前立のご本尊を制作。15年、大山貫首により入魂された。

 同年10月から、佐々木住職をはじめ山階派の僧侶に髙尾山の僧侶らが加わり、富士の裾野を巡って和歌山に至る約600㌔もの徒歩練行が約1カ月にわたって行われた。途中、京都に滞在。山階派の大本山勧修寺では、筑波常遍門跡の導師で法要を営み、さらに奈良・東大寺でも法要を行って、長壽寺へ到着した。

復興が進む長壽寺


「これから、ぼつぼつです」

 その後も佐々木住職が寺や本坊の整備をこつこつと続けるうち、地元の人たちも次第に寺を訪れるようになった。今では地元の信者が集まり、年に2度の法要を行うまでになった。

 今年4月1日の花まつり法要は激しい風雨に見舞われたが、助法に駆け付けた出仕の各宗僧侶や随喜者らは、佐々木住職の妻、景子さんと友人らによる心尽くしのお斎でもてなされた。法要後は、夜桜を揺らす雨の中、尺八奏者の泉川獅道氏が演奏を奉納した。

 佐々木住職は「飯縄大権現さまにまつわる行事は、徒歩練行をはじめ、全て雨だった」と振り返った。

 本坊の屋根は、いまだに雨よけのシートをかぶせたまま。佐々木住職は「仏さまのおられるところだけは、まず何としても修理しなければと思った。庫裏・本坊までは、なかなか手が回らなくて…。これから、ぼつぼつです」と話す。

 分霊に尽力した中原修験部長は「これからも、どんどんお護摩を修行してください」と、改めて髙尾山からの応援メッセージを送った。

(文化時報2020年4月15日号から再構成)
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盗難仏を展示 “奥の手”使う博物館の困った事情

 和歌山県立博物館(伊東史朗館長)は、2010~11年に盗難に遭って以来所有者が分からない「阿弥陀如来坐像」を今年4月にスポット展示した。所有者の手掛かりを募るとともに、文化財盗難の現状を知ってもらい、盗難対策の強化につなげたいとしている。

 展示された仏像は、高さ55・8㌢の一木造り。盗難事件後、13年から同館が保管している所有者不明の文化財43点の中では、最古かつ最大の仏像という。

 像自体は平安時代中期の作とみられるが、光背と台座は1787(天明7)年に造られたことが分かっている。台座の銘文に「野上下津野」の地名が見られ、現在の和歌山県海南市下津野近辺に伝わった可能性がある。

展示された盗難仏の阿弥陀如来坐像と大河内智之主任学芸員


 同博物館の大河内智之主任学芸員(日本美術史)は「美術品や文化財としての価値はもとより、地域の信仰の歴史を背負ってきた点からも貴重な仏さま。一日も早く元の所有者にお返ししたい」と話している。

地域の信仰どう守る

 仏像の盗難は、地元住民にも暗い影を落とす。

 「盗難事件が起きているとは聞いていたが、『まさか自分たちのお堂が』という思いだった」。和歌山県高野町花坂地区の前区長、上田静可さんはそう振り返る。

 上田さんが世話役を務める花坂観音堂では、江戸時代の作とみられる阿弥陀如来立像が2011年1月に盗まれたことが分かり、現在も行方が分かっていない。

 当時、お堂の防犯対策は南京錠による施錠のみ。賽銭(さいせん)の盗難もたびたび発生していた。付近の民家からは死角に当たり、管理を担う住民も高齢化していた。

 和歌山県内では2010年から翌年春にかけ、山間部の無住寺社やお堂を中心に、仏像172体と仏具・神具などが盗まれる事件が発生。これ以降も無住寺社を狙った盗難事件が相次ぎ、17~18年には和歌山市など3市の10カ寺で仏像60体以上が、19年にも田辺市の2カ寺で本尊が盗まれた。オークションサイトで転売され、いまだに行方が分からないものが大半を占めている。

 和歌山県立博物館の大河内智之主任学芸員は、相次ぐ文化財盗難の背景について「過疎化や高齢化に伴う無住寺社の増加、手軽に使えるインターネットオークションの普及が重なり合い、犯罪を生みやすい環境になっている」と分析する。

 事件当時、被害者の多くが「仏像を盗む罰当たりな人がいるとは思わず、防犯を考えたこともなかった」と口にした。住民側には信仰の対象であっても、盗む側には商品であり、心理的な抑止力は働かない。

 大河内主任学芸員は「管理の担い手が減る中で信仰の場を犯罪から守るには、盗む側と盗まれる側の意識のギャップを理解し、物理的な対策を考える必要がある」と話す。

仏像の盗難被害に遭った花坂観音堂

3Dプリンターで「お身代わり」

 そこで和歌山県立博物館は、本物の像を博物館へ移し、3Dプリンターで制作した「お身代わり仏像」を安置する取り組みを13年から行っている。視覚障害者向けの教材として使っていたレプリカを活用できないかとの発想で、地元の高校生・大学生と協力して制作を始めた。

 予算は平均10万~20万円で、大きなものだと50万円ほど。専門業者に依頼した場合に比べ、10分の1程度のコストで制作できるという。昨年秋に京都市で開催された国際博物館会議(ICOM)に出品され、レプリカの新たな活用法として世界からも注目を集めている。

 奉納した「お身代わり」は、今年2月末時点で28体にのぼる。「大切な仏さまを偽物で代用するのか」との批判がある一方、地域住民からは「盗難を心配せず安心して眠れる」「学生さんとのふれあいがうれしい」など感謝の声が多いという。

 同館は、無住寺社への防犯カメラ設置などを呼び掛けているが、防犯設備の管理自体が難しい地域も少なくない。大河内主任学芸員は「お身代わり仏像は、そうした地域を救う究極の一手。いずれは本物の仏像を地域に戻せればと願っている」と話す。

 その上で「文化財盗難は、地域の歴史を壊す卑劣な行為だ」と強調。2010年の事件を教訓に、県警と県教委が連携して対策を進めており、「他県でも被害が見えていないだけで、盗難が起きている可能性もある」と指摘した。(安岡遥)

(文化時報2020年4月11日号から再構成)
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全共闘から禅へ「情熱こそが原動力だった」

 今春公開された映画『三島由紀夫vs 東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督)を見て、「映像が始まった瞬間から、心臓が高鳴った。当時の私たちは熱く、情熱こそが原動力だった」と語るのは、曹洞宗の五十嵐靖雄道心寺住職(広島県呉市)。駒澤大学全共闘として学生運動に身を投じた後、大学を中退し、「生きるとは何か」を思索。滝沢克己(キリスト教神学者)や久松真一(哲学者)の著作を通じ、禅の世界に道を求めた。「学生運動に没頭したからこそ、仏教に目覚めた」と語る。

五十嵐靖雄(いがらし・せいゆう)1947年、新潟県生まれ。駒澤大学中退。曹洞宗大本山總持寺で修行した後、京都・安泰寺で内山興正老師に師事した。83年に広島県呉市の道心寺へ入寺。2006年から宗議会議員を務め、現在4期目。

 新潟県阿賀野市にある曹洞宗瑠璃光院の次男として生まれ、1966(昭和41)年に駒澤大学仏教学部に進学した。当時は僧侶になる気持ちは薄かったという。

 ノンポリだった青年が学生運動に関心を持ったのは、67年の「10・8羽田闘争」。ベトナム戦争反対を訴える同じ世代の学生たちが機動隊と渡り合う姿に「どうしてここまで社会に憤っているのか」と疑問が湧いた。

 初めてデモに参加したのは、翌68年の「新宿騒乱」だった。10月21日の国際反戦デーを迎えるにあたり、反戦団体はベトナム戦争反対の集会を各地で開いた。武装した約2千人が新宿駅で機動隊と衝突。政府は騒擾罪(そうじょうざい、現在の騒乱罪)の適用を決め、743人が逮捕された。

 五十嵐住職はその日、国会議事堂やアメリカ大使館へのデモに参加していた。
 
 「東京都内は至る所で火の手が上がり、学生を応援する群衆の波がすごかった。交通はストップし、唯一動いていた地下鉄丸ノ内線に飛び乗ったが、駒大には帰れず、早稲田大学の最寄り駅で降り、大隈講堂で一晩を過ごした」

 デモに参加した動機は、戦争反対の思いからだったという。

俺が俺であるとは

 1969(昭和44)年、駒大も機動隊を学内に入れ、大学側が校舎を逆封鎖。正門で学生証を提示しなければ学内に入れなくなった。

 ある日、五十嵐住職が学生証を持たずに正門から入ろうとすると「五十嵐君、学生証がなければ入れないよ」と教員に呼び止められた。「あなたは僕を五十嵐君と呼び、駒大の学生だとわかっている。にもかかわらず入れないとはどういうことか。今いる私そのものが、本当の私ではないのか」と教員とやり合い、正門のフェンスに登ってアジ演説を始めた。

 その場に集まった多くの学生の押す力でフェンスが倒れると、私服警官に取り囲まれ、東京都公安条例違反容疑で逮捕された。玉川警察署での2週間の勾留が解かれて大学に戻ると、授業料未納で退学処分となっていた。

 「俺が俺であるとはどういうことか」。退学後も探究し、手当たり次第に本をあさった。中でも高橋和巳、小田実、柴田翔らからは多くの影響を受けた。

 「高橋和巳からは『普段の生活の中で、一人一人、自分の主体に対して真摯に問いを発しているのか』という課題を投げかけられた。すると困ったもので、だんだん闘争する根拠がなくなってきた。そしてセクトの人間と話をすればするほど、私自身が相反する立場となった。『何のために闘うのか』を自己に問い直さなければならないと考えるようになってきた」
 
 さらに思索は深まっていった。「人は何によって人たりうるのか」と。

神も因縁所生の身

 そのような中、ある言葉に巡り合う。哲学者・キリスト教神学者で九州大学教授を務めた滝沢克己の「人は神ありて人なんだ」というフレーズだった。

 「滝沢先生は全共闘の学生に対し、一宗教者として理論的に対話してくれた人。滝沢先生の本に巡り合って助かった。ここで宗教が出てくるのかと感嘆した」

 その後、滝沢と京都大学教授を務めた哲学者、久松真一の間で、無神論に関する論争があった。西田幾多郎の哲学と、鈴木大拙の禅学に影響を受けた久松にも、五十嵐住職は関心を持った。

 「久松先生の本には『絶対者はどこに立ち現れるのか。禅者の立場からすれば、神といえども因縁所生の身だ』と書いてあった。この言葉に衝撃を受け、やはり信仰の世界に入らなければ分からないのかなと考えた。頭で考えるよりも、座らなければ答えは出てこないと思った」
 
 70年春、五十嵐住職は修行のために、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺へと向かった。

言葉を全て手放す

 69年1月18、19日に全共闘運動の象徴ともいえる東大安田講堂事件があった。駒大全共闘の一員だった五十嵐住職も、たびたび本郷に動員されていたが、その時はけがをしていて参加できず、テレビを見ながら歯がゆい思いをしていたという。

 映画『三島由紀夫vs東大全共闘』は、同年5月13日に東大駒場キャンパスで行われた討論会の様子と、当時の関係者や文化人への取材を基に構成している。

 この討論会の様子は、数日後には周辺の大学の学生の耳にも届いた。討論で三島は、学生たちとの間にあるイデオロギーの違いを超え、「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます」と語っている。

 「その情熱を原動力として私は自分のありようを探究し、滝沢先生と久松先生の言葉に出会い、僧堂生活に入った、坐禅は一切のもの、言葉も全て手放してしまうこと。如実に立っていることから始め、物事を照り返すということだった」

運動は敗北だったのか

 映画の終盤、全共闘運動に身を投じた人たちに、「全共闘運動は敗北だったのか」と尋ねる場面がある。ある人は問いに沈黙し、ある人は「君たちの国では敗北という認識かもしれないが、僕の国では…」と持論を展開した。五十嵐住職はどう捉えているのか。

 「勝った、負けたという話ではなく、いよいよ自分の立つ位置が鮮明になったということ。どのように一歩を踏み出すのかが大事になった。だから私はその一歩を手探りで求め、その先に坐禅があった」

 討論では、全共闘の論客で、今も劇団を主宰する芥正彦氏が三島に対し、「あなたは日本人であるという限界を超えることはできなくなっている」と言い放つ。このやりとりは空間や時間といった観念論にも飛躍し、印象的なシーンでもある。そして全共闘の学生の情熱にだけは共感を示した三島は「言霊をここに残して去っていく」と会場を後にする。

 五十嵐住職は「当時の全共闘運動を実際に肌で感じていない人にとっては、このシーンは禅問答のように感じるかもしれないが」と補足しつつ、次のように説明する。

 「表現の仕方はそれぞれで、芥氏は演劇を使った体での表現だったろうし、三島は言葉という言霊を使った文学表現だった。ただ、全てのことから自立するということは、国籍はもちろん、自立という言葉さえなく、言葉の意味すらも問い直さなくてはならない。三島はそのことを知っていたからこそ、自分にとっての言葉は言霊だと確信していた」

 禅の世界で、言葉のないところを言葉で指し示さなければならない場合、それは「如是」となる。

 「如是とは、そのまま、ありのままという意味。今の自分の立場で言えば、坐禅に照り返されている自己。そこから初めて言葉が発せられる。それを三島は言霊と言った。だからこそ、三島の文学には力がある。そしてわれわれ僧侶が読むお経も、お釈迦さまの言霊であり、いいかげんに読んでいてはいけないということだ」

切腹に匹敵する坐禅

 五十嵐住職が大本山總持寺に入った年の秋、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島は割腹自殺をした。夕方、風呂に入っていると、修行仲間から「三島が切腹したぞ」と伝えられ、言葉が出なかったという。

 「修行時代もずっと三島が切腹した意味を考えていたが、その答えは『生き切ること』だと考えていた。私は幸いにして、坐禅の道に進み、これまでやってくることができた。人生において選び取ることは大事で、そこに人それぞれの思いが込められている」

 「おそらく三島は三島で、憂国の志士として割腹したのだろう。それは彼の美学。映画を観て、改めて三島の真剣に生きる姿に触れ、私自身がもっと毎日を凛(りん)として生きなければと思った。三島の切腹に匹敵するほどの坐禅を、今後も行い続けなければと思わされた」

水平に立ち尽くす

 学生運動の中にはさまざまなセクトがあったが、セクトに属さない「ノンセクト・ラジカル」の全共闘は比較的、紳士的な人が多かったと五十嵐住職は振り返る。

 「機動隊とゲバ棒で戦う場面だけをクローズアップするから、暴力的な集団だという印象が人々の中にはある。しかし、討論会を見ていてもわかるが、普通の人間が『これはおかしい』と思って立ち上がったのが、全共闘運動だった」

 では、そもそも全共闘運動とは何だったのか。

 「当時の若者は、大学のありようや人間のありようを問い直すとき、文明・文化は果たして学生にこれほどまで秩序を要請するものなのだろうか、あまりにも権威主義、学歴偏重主義になっているのではないかと疑問を抱いていた。その疑問に、ほとんどの学者は答えられなかった。それならば大学は解体してしまえばいいという運動だった」

 教員が問いに答えられないのは、大学が生きた学問をしていないからだと五十嵐住職は指摘する。

 「本来なら、曹洞宗の宗門関係学校である駒澤大学は、禅という立場で答えを出せる大学だったはずだ。言葉以前の水平に立ち尽くし、そこから物事を見ていかなければならないというのが禅の立場。当時の全共闘運動も実はそのことを目指していた。今から思えば三島由紀夫も滝沢先生も、まっすぐに全共闘運動に向き合ってくれた。とてもありがたかった」
           
(文化時報2020年4月15日号から再構成)
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在家から僧侶になった瞬間があった

 知らず知らずのうちに、僧侶になるレールが敷かれていた。それでも、宗教には噓があると思っていた――。浄土宗の名刹、轉法輪寺(てんぽうりんじ、京都市右京区)の兼岩和広住職(49)は、そう振り返る。師との出会いによって、浄土宗の教えが生き方の指針になったという兼岩住職。在家から僧侶になった瞬間は、はっきりとあった。(大橋学修)

轉法輪寺の兼岩和広住職


一休さんに導かれ

 父方の伯母は浄土宗成蓮院(名古屋市千種区)の尼僧で、かつて住職を務めていた。幼い頃は成蓮院を訪れるたび、アニメ「一休さん」のまね事をして遊んだ。手先が器用な伯母から、子ども用の僧衣を作ってもらった。いつしか盆の棚経に同行するようにもなったが、中学1年生の頃には嫌になっていた。

 高校受験に際して、宗門関係学校の東山高校(京都市左京区)に行くなら援助してやると伯母が言った。滋賀県で生まれ育った自分には、京都市内の学校に通うのも魅力的だと思えた。寺院や僧侶をそれほど意識することなく、高校生活を過ごした。

 大学も、宗門校の佛教大学に進学するよう言われた。将来どのような職業に就くか考えておらず、「僧侶の資格を取得しておいた方が無難」という軽い気持ちで入学した。大学生活でも、僧侶として生きる意義に目覚めることはなかった。

感動の涙が出ない

 転機となったのは、浄土宗の教師資格を取得するための最終関門、伝宗伝戒(加行)道場の成満式だった。

 自分以外の入行者は、師から弟子に仏法を相続する「血脈相承」を終えたことに対し、感動のあまり涙を流していた。僧侶になることに反発を抱いていた仲間でさえ、同様だった。

 顧みると、自分自身にも喜びはあったが、それは修行からようやく解放されるという思いだった。周囲との埋めがたいギャップを感じた。「僧侶としての自信はない。では、どうすれば良いのか」

 教師資格取得者が1年間こもって研鑽する教師修練道場への入行を決めた。道場には、休憩時間をつぶすには十分すぎる書籍があった。手塚治虫の漫画『ブッダ』から読み始め、次に入門書、気付けば専門書籍も手に取るようになった。

望遠鏡で極楽見る

 道場の座学で、印象的な出来事があった。佛教大学教授で轉法輪寺前住職の故深貝慈孝師との出会いだった。

 深貝師との対話で、地球周回軌道にあるハッブル宇宙望遠鏡からは、数億光年先の銀河を観測できるという話題になった。「極楽浄土があるとされる十万億仏土先の天体が観察できるようになったら、どうしましょうか」。そんな軽口をたたいた。すると当たり前のように、深貝師は「見えるようになるのが待ち遠しい」と応じた。心を動かされた。

 「考えてみれば、法然上人の教えは、信じれば全てつじつまが合う。浄土宗、ちゃんとしているじゃないか」

 道場成満後は、佛教大学大学院への進学を誘われ、深貝師や故岸一英教授、現浄土宗総合研究所長の藤本淨彦氏の下で、廬山寺蔵『選擇集』の翻刻を手掛けた。その研究は、法然上人が残した『選擇本願念佛集』の編纂過程に新たな見解を見いだす論文を発表するまでになった。

 深貝師の後を継いで轉法輪寺に入った兼岩住職は言う。「年齢を重ねるにつれ、いろいろとつらいことがあった。どんなときも、阿弥陀さまが苦しさのはけ口となってくれた」

(文化時報2020年4月1日号から再構成)
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