文化時報プレミアム」カテゴリーアーカイブ

宇宙に浮かぶ内陣 ホテル一体型・浄教寺

 改築工事を進めていた京都市中京区の浄土宗浄教寺(光山公毅住職)が7月21日、本尊の開眼と併せて竣工式を営んだ。三井不動産とタイアップし、寺院とホテルを一体化。ホテルは9月28日にグランドオープンした。京都市内では初めてのケースで、古都における寺院復興の事例として注目される。(大橋学修)

48基の灯籠に照らされる内陣

 1323.4平方㍍の敷地に、鉄骨一部鉄筋コンクリート9階地下1階建て延べ6885.41平方㍍を建てた。1階部分に「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」のエントランスと、浄教寺の本堂、寺務所を置く。

 本堂は、光山住職の「古い物を生かし、今の時代に合ったしつらえに」との要望を受け、大西法衣佛具店の大西晋平社長がデザイン。内陣を中央に据えた回廊式で、信州善光寺の戒壇巡りのように、薄暗い空間に光輝く内陣が浮かび上がる。

 内陣は回廊より50㌢ほど高くなっており、旧本堂の柱や梁などを活用。須弥壇(しゅみだん)は以前よりも高さを抑えた。天蓋(てんがい)や幢幡(どうばん)などの荘厳仏具は修理を施し、内陣の周囲に巡らせた48基の灯籠に照らされて、それぞれが輝きを放つ。

 回廊の天井や壁、床は黒を基調に仕上げ、随所に金銀のラメをちりばめた。極楽浄土に至る道程の宇宙空間をイメージしたという。

 平安後期に制作された地蔵菩薩立像や、同寺創建の礎を築いた平重盛の座像を奉安。同寺を菩提寺とする日本南画家、平尾竹霞(ちくか)の作品など、各種の寺宝や建設前の発掘調査で発見された鬼瓦なども展示し、歴史と芸術を感じさせる空間となっている。

持続可能な新手法

 浄教寺がホテルを併設した背景には、観光都市・京都の市街地にある好立地を生かして、持続可能な寺院にしたいという光山住職の決断があった。

 光山住職は、東京都文京区の善雄寺で生まれ育ち、銀行に勤めながら法務を手伝った。浄教寺はかつて叔父が住職を務めていたが、後継者として自分に白羽の矢が立った。

 ただ、堂宇は古く、檀信徒数は約100軒と多くない。京都の市街地に立地する強みを生かして、ホテルにすれば再興できると、銀行勤めで培った経済感覚で考えたという。

 実際に不動産賃貸という新たな収益源を得たことで、堂宇の改築費や寺院運営費の一部を捻出できた。檀信徒の金銭的負担は全くないどころか、護持会費の徴収を廃止したという。

 光山住職は「経済的な独立なくして、教化はあり得ない。100年、200年後を考えた活動をしなければならない」と強調。「浄教寺の手法は、寺院再生の一つの在り方。お寺の文化的な意義を伝えながら、企業体として収益を得る画期的な案件だと感じる」と話す。

浄教寺の歴史を物語る所蔵品を展示した回廊

開かれたお寺に

 「人が集まることでお寺が生きる。お寺をいかに生かすのかが、これからの私たちの仕事ではないか」

 光山住職の考えに基づいて、ホテルの運営を担う三井不動産も、寺院一体型という特色を最大限に生かし、立地だけに頼らないホテルを目指す。

 ロビーには本堂を眺められる窓を設け、館内の調度品にはかつて浄教寺にあった部材を活用。宿泊者が毎朝の勤行に参加し、写経体験などができるプログラムも用意した。「開かれたお寺でありたい」という光山住職の願いを形にした。

 また、本堂の回廊部分に寺宝を展示したのは、檀信徒が浄教寺を誇れるようにするためだという。光山住職は「これまで絵画や墨跡の軸を大切にしすぎて、しまいこんでいた。興味を持つ友人を連れてきてもらえるようなお寺でありたい」と話す。
        ◇
 浄教寺に併設する「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」(☎075-354-1131)の総客室数は167室。黒を基調としたデザインで、寺院と一体の雰囲気を醸し出している。JR京都駅前の三井ガーデンホテルに荷物を預ければ、浄教寺のホテルに搬送してくれる「バゲージサービス」(有料)もあり、身軽に京都市内の社寺を巡拝できる。

(文化時報2020年8月22日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

差別と地震、悲嘆は同じ 浄土宗・静永秀明氏

 悲嘆(グリーフ)を抱える人々に対し、「私たち仏教者は、スポンジのような役割を果たすべきだ」と語るのは、浄土宗金龍院(滋賀県甲賀市)の静永秀明住職(51)。浄土宗宗務庁の人権担当部署で勤務した経験が長く、阪神・淡路大震災と東日本大震災の被災地に行った経験からくる言葉だ。サラリーマンだった父が突然出家し、図らずも僧侶を志すことになった静永氏は「差別で苦しむ人も、大切な人を亡くした人にも、向き合う姿勢は同じ」と考えている。(大橋学修)

浄土宗金龍院の静永秀明住職。後ろの掛け軸は藤井門跡の染筆

父と私、出家の覚悟

 父は一般企業の管理職。公立の施設で結婚式の運営や食事の提供を請け負っていた。自身は小中学生の頃、旧国鉄の車掌長が身に着ける白い制服に憧れ、鉄道マンになることを夢見ていた。

 転機が訪れたのは、中学3年の時。当時48歳だった父が、突然出家すると言い出した。

 父は、極楽寺(奈良県葛城市)の住職の次男。跡継ぎは伯父だった。ところが金龍院の代務住職を務めるようになり、奈良県と滋賀県の2カ寺を掛け持ちすることが負担だった。そこで、父に白羽の矢が立ったという。

 父が転身を宣言したのは、当時住んでいた兵庫県西宮市の高校に入学願書を出した直後。「そんな話、聞いたこともない」と戸惑った。それでも、父が会社に提出する退職願をしたためる後ろ姿を見て、自分自身も将来は僧侶になる覚悟を固めた。

 父は金龍院の住職になり、自分は母方の祖母宅から西宮市の高校に通った。

上から目線ではダメ

 1988(昭和63)年に佛教大学に入学。大本山くろ谷金戒光明寺に設けられた学寮で修行しながら通学した。長らく在家として生活してきたため、数珠の掛け方など基本的な所作さえ知らなかった。3年生になる直前、総本山知恩院の藤井實應門跡(1898~1992)に仕える伴僧員に誘われ、少しでも僧侶の知識を身に付けようと、知恩院で奉職しながら大学に通うことを決めた。

 想像した以上に厳しい毎日だった。「こんな所、すぐにでも辞めてやる」。ただ、3カ月もすると藤井門跡との生活の中で多くの学びが得られることを実感し、退山する気持ちがなくなった。

 卒業後は浄土宗宗務庁に入り、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」の事務局に配属された。大学時代に故仲田直教授が講義で「浄土宗を背負っていくお前たちが、同和問題に一生懸命に取り組まないと、この問題は解決しない」と言っていたことを思い出した。

 当時は、差別戒名問題=用語解説=が解決していない時代。不当な差別に苦しむ人々を見て、それぞれの違いを認め、お互いを尊重することの重みを感じた。差別事象が発見されるたびに、人権団体への対応を迫られ、学びを深めた。

 「自分は当事者になれないが、寄り添う努力は必要だ。苦しむ人に手を差し伸べるという上から目線ではなく、そばにいて、空気のような存在でなければならない」と語る。

二つの震災と無力感

 仕事に慣れてきた1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。翌18日、故郷の西宮市に向かった。にぎやかだった街は静まりかえり、聞こえるのはサイレンの音だけ。砂ぼこりにまみれた空気の中で、恐怖におののいた。上司から命じられて市内を自転車で巡り、被災寺院の調査に取り組んだ。何もできない自分の無力さを感じた。
 
 16年後、今度は東日本大震災が起きた。居ても立ってもいられない気持ちだったが、業務があって駆け付けることができない。人権啓発で縁のできた西光寺(宮城県石巻市)の樋口伸生副住職を通じ、必要物資を送った。ようやく足を運べたのは、西光寺での百箇日法要だった。「できることは限られている」。そう感じた。

 その後は、西光寺で営む遺族の集い「蓮の会」に参加するようになった。最初は「気を遣わねば」との思いが強かったが、口にしてはならない言葉さえ話さなければ、普段通りに振る舞う方が良いことに気付いた。

 阪神・淡路大震災では、西宮の街が復興する姿を見届けた。石巻市でも毎年3月、西光寺の2階から〝定点観測〟をしている。

 「建物が再建されても、人の心が戻らないと復興とは言えない。被災地にいれば、どうしても気がめいる。だから、お茶を飲みながら普通に話をして、心の中の重たいものを僕らが受け止めることが大切」

 そして、悲嘆を吸収していく。スポンジのように。
       ◇
【用語解説】差別戒名問題(仏教全般)
 平等思想を貫くべき仏教を信奉しているにも関わらず、被差別部落出身者の故人に、侮蔑的な文字を用いるなど、特殊な戒名を付けていた問題。

(文化時報2020年8月19日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

はじまりは京都から 大谷大学、国際学部を新設

 真宗大谷派(東本願寺)の関係学校、大谷大学(京都市北区)は2021年4月、文学部国際文化学科を改組し、国際学部を新設する。スローガンは、「世界と共生したいあなたへ はじまりは京都から」。世界中から多くの観光客が訪れる観光都市・京都の特色を生かしながら、国際的なコミュニケーション能力などを身に付けた学生の育成を目指す。新学部スタートへの思いを木越康学長に聞いた。(編集委員 泉英明)

 木越康(きごし・やすし)1963 年2月、石川県生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士後期課程(真宗学専攻)満期退学。大谷大学短期大学部助教授、同文学部教授などを経て2016 年4月に学長就任。著書に『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法藏館)、『〈死者/生者〉論』(共著・ぺりかん社)など多数。金沢教区光專寺衆徒。

4学部制に移行

 《大谷大学は2018年度に社会学部と教育学部を設置し、文学部の単科大学から複数の学部を有する大学へ移行した。国際学部の新設は当初から構想されており、これでいよいよ4学部が出そろう》

──国際文化学科をベースに、4月から国際学部が新設されます。

 「文学部に社会学部と教育学部を加えて3学部にしたことは『伝統を、社会に開き、未来へつなぐ』という大きなコンセプトに基づいていました。仏教を中心とした伝統を現代で社会化し、教育という未来を見据えたのです。今回は未来から、さらに世界を視野に入れようということです。国際学部の新設で、目指してきた形がいったん整います」

 「現行の国際文化学科は定員90人ですが、学部化にあたり定員を100人に増やします。4学年で40人増えますが、短期大学部を閉鎖したので全体の定員数はほぼ変わりません。4学部制が大学規模にも適していると考えています」

 《国際学部には「英語コミュニケーションコース」「欧米文化コース」「アジア文化コース」の3コースがある。語学の強化のみならず、仏教を基軸に置く大学として、異文化への理解を深めることに特色を持つ》

──新学部設置に向けた準備が進んでいます。

 「1990年代から国際文化学科を有してきたので、ゼロからのスタートではありません。すでに教員スタッフや留学先も確保できています。文部科学省からも大きな指摘はありません」

 「『はじまりは京都から』と銘打って、京都という国際的な環境の中で学ぶことが特長の一つです。2年生からは留学なども積極的に行いますが、1年生は京都という土地を生かしたグローバル社会との出会いを経験してもらいます」

 「新学部長にお願いしているのは、国際的な異文化理解を深めることです。宗教を含めた他者理解は、仏教徒にとってはしやすいのではないでしょうか。日本には『信じる宗教がない』という感覚を持つ人が多いかもしれませんが、国際社会では相手が大事にする宗教を含めた他者理解が必要になります。仏教を根幹に置きながら、他の宗教とも出会うような学びが必要です」

「~ファースト」はあり得ない

 《新型コロナウイルスの影響で、各大学は前期にリモート授業などを余儀なくされるなど、対応に追われている。大谷大学も例外ではなく、新入生らのサポートを実施した》

国際学部新設の記者会見に臨む木越学長(右)=2020年9月16日

──コロナ禍での新学部開設となりそうです。

 「一般的な注意事項に従い、一つずつ注意しながら行うしかありません。全体が苦しんでいる時には、全体でどう立ち上がるかを発信し、対話の態度を取り続けねばなりません。国際社会では『~ファースト』という言葉がありますが、仏教的視点から見ると『~ファースト』というような考え方にはなりません。このような視点を持った学生を育てたいですね」

 「2020年はリモート授業を取り入れましたが、教員も学生も、ハードもソフトも全く準備できていない状態でした。学生が混乱したまま付いてこられず、前期が終わってしまったのではないかと危惧しています。もしオンライン授業を一部だけでも継続するなら、ハードをきちんと整える備えが必要です」

 「精神的な部分の心配もあります。『コロナ鬱』ともいわれ始めていますが、閉じこもってしまった日常が、人間の精神にどんな影響を及ぼすのかは分かりません。本学は1年生の最初から指導教員がいて、メールアドレスを渡すことで、学生と教員が個別にやり取りできる関係を築いています。6月からは登校可能日を設けて、大学で指導教員の授業を受ける機会も作りました。ウェブ環境を整える支援については、一律5万円の準備金を支給しています」

仏教は揺るぎない柱

── 国際学部が開設される2021年度は、開学120周年で、10年間のグランドデザインの最終年度となる節目の年です。

 「現在のスローガン『Be Real 寄りそう知性』は、使い始めて4年ほどです。私自身、いまだに、この言葉の意味を考えながらかじ取りを行っています。今後も方針は大きく変わることはないでしょう。また、『寄りそう知性』という言葉は国際社会の中で大切な視点です。新たなグランドデザインも、これまでのコンセプトをより強く展開するような形で発信されるのではないでしょうか」

──大谷派の関係学校としては、どのように展望されていますか。

 「大谷大学は全ての学部で大谷派の教師資格を取得することが可能です。現代の住職は兼業が前提になる場合が多い。例えば社会学部で公務員を目指しながら、あるいは教育学部で教員免許を取得しながら、大谷派の教師資格も有することができます。これが複数学部化の狙いの一つでもあります。最初は宗門内にも学部を増やすことに心配の声がありましたが、仏教を背景にしながらの複数学部化を経て、大学は活性化しています」

 「『Be Real』という言葉を生み出す時、『もっと仏教を前面に押し出すべきだ』という議論もありました。仏教は大谷大学の揺るぎない柱です。新しいグランドデザインにも、この精神は継承されるでしょうし、もっと仏教らしい大学の在り方の実現可能な形を考えることになるでしょうね」

(文化時報2020年9月19日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

コロナ禍に学ぶ僧侶たち オンライン駆使「Zoom安居」

 新型コロナウイルスの感染拡大に寺院や僧侶がどう向き合うかを考えるオンライン学習会「Zoom安居(あんご) 」が順調に回を重ねている。文化時報紙上セミナー講師の鵜飼秀徳氏もスタッフやパネリストとして参加。僧俗や宗派を問わず、さまざまな切り口で寺院と僧侶の未来を見据えようとしている。

「Zoom安居」に登壇した鵜飼秀徳氏


チャット機能で議論

 「新型コロナウイルスは、人々の生活を大きく変えた。大半は仕事が減り、収入が減少した。それは、信者からお布施を預かる私たち僧侶も同じだ」

 司会を務める浄土宗玄向寺(長野県松本市)の荻須真尚副住職が、テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じて参加者らに語り掛けた。7月21日の第3回Zoom安居。「コロナで変容したお布施について」をテーマに、行政書士で葬祭カウンセラーの勝(すぐれ)桂子氏と鵜飼氏が対談した。

 勝氏は、コロナ禍で法事の中止や延期が相次いだことについて「多くの人にとって、供養はイベントにすぎなかった」との見方を示し、鵜飼氏も「これまでの宗教活動に、宗教性は存在していたのか」と疑問を呈した。

 対談の最中にも、チャット機能を使って参加者が質問や意見を入力していく。その中から「オンライン法要はお布施に直結しないのではないか」という意見を、荻須副住職が紹介した。

 勝氏は「法要をやってほしい人は、自分から香典を包む。そもそもお坊さんには、お布施がなければ法要をしないのかと問いたい」と応じ、鵜飼氏は「仏教は伝来して以来、常に最新のツールを駆使して社会をリードし、新しい価値を生み出してきた。それが、戦後からはなぜか古典回帰している」と語り、オンライン法要の導入に対して消極的になることを批判した。

 さらに鵜飼氏は「東日本大震災でも同様のケースが見られたが、コロナ禍で減ったお布施は元に戻らないのではないか」と指摘。一方で勝氏は「気持ちをどれだけ救ったかで、お気持ちの額は決まる。オンラインだからといって安くする必要は全くない」と強調した。

鵜飼氏と対談した勝桂子氏

僧侶の踏ん張り時

 Zoom安居は無料で開催。政府の緊急事態宣言で社会が緊迫していた5月、浄土宗一向寺(栃木県佐野市)の東好章住職が企画し、荻須副住職らに呼び掛けて始まった。趣旨に賛同する僧侶らが続々と申し込み、5月21日の第1回には100人が参加した。

 第2回は6月29日、「コロナ禍における差別問題とグリーフ(悲嘆)ケア」をテーマに行われた。福島第1原発事故を巡り、放射能への不安や福島県民への差別が生じたこととの類似点を探り、「コロナ差別」と言われる状況を読み解こうとした。また、コロナ禍で十分な別れができないまま故人を葬送する遺族へのケアについても考えた。

 荻須副住職は「非常時に寺院が直面した問題は、平常時からあって気付かなかったか、小さなこととして捉えていたものだ」と話す。

 例えば葬儀の簡素化など、以前から「寺離れ」や「宗教離れ」と言われてきた状況は、コロナ禍で加速し、終息後も元に戻らない可能性が高いと考えている。

 荻須副住職は「コロナ禍は、寺院・僧侶の踏ん張り時。いま何をすべきかを考え、実践するための勉強会として、Zoom安居を継続したい」と話している。

(文化時報2020年8月8日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

膝交えて聞法を 真宗大谷派門首・新門が記者会見

 2020年7月1日に就任した真宗大谷派の大谷暢裕第26代門首(68、釋修如)と、長男の裕新門(34、釋慶如)が同30日、真宗本廟(東本願寺、京都市下京区)の宮御殿でそろって会見に臨み、「門徒の皆さまと膝を交えながら一緒に聞法し、800年守られてきた浄土真宗の教えが尽きぬよう、一生懸命尽くしたい」と抱負を語った。

 暢裕門首は暢顯前門(90)のいとこ。京都市生まれで、1歳のときに南米開教区の開教使だった父・暢慶氏とブラジルに渡った。サンパウロ大学物理学部学士課程卒。航空技術研究所に勤務し、物理学博士号を持つ。2011年に鍵役・開教司教に就任し、14年に門首後継者に選定された。

 裕新門はサンパウロ大学分子学科卒。東京大学大学院で数理科学を学び、博士号を取得し、現在は大谷大学大学院真宗学専攻修士課程に在籍している。17年に鍵役に就任。暢裕門首の就任時に、補佐役となる新門と開教司教に就いた。

 両門は共にブラジル国籍。暢裕門首は「浄土真宗は国や人種、性別、年齢などに関わりなく、平等の世界を説く教え。何が違っていても、生きとし生ける衆生に、お念仏を届けたい」と力を込めた。また6月30日に退任した暢顯前門について、「暢顯前門の後ろ姿を一生の目標として歩んでいく」と思いを語った。

 裕新門は「ブラジル育ちという教団外部の視点を生かし、中の価値観を問い直しながら、海外布教に尽力したい」と述べた。

 会見は当初、就任翌日に開かれる予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期され、御真影の厨子を開く御親開など、就退任の行事も中止となった。

 暢裕門首は就任から約1カ月間を振り返り、「差別・偏見を生み出す人間のありようを見過ごさない視点が大切」と、新型コロナウイルスに揺れる社会へ警鐘を鳴らした。

 また宗派の礎であり、2021年が成立40年となる宗憲を「大谷派の大事なベース」と表現。信仰運動である同朋会運動=用語解説=を「世界の誰にでも開かれ、平等の教えを伝える運動」と示した。

南無阿弥陀仏を世界中に 暢裕門首

──門首就任への率直な思いと、就任1カ月で感じたことをお聞かせください。

 暢裕門首「門徒の皆さまと膝を交えながら一緒に聞法し、800年大事に守られてきた浄土真宗の教えが尽きぬよう、一生懸命尽くしたいと思います。7月28日に門首となって初めて、宗祖親鸞聖人の命日法要に臨み、御真影の扉を開かせていただきました。『よろしくお願いします』と頭を下げる気持ちでした」

──目標はありますか。ブラジルでの経験をどのように宗門に生かしたいですか。

 暢裕門首「門首に就任するにあたって一番大切な経験は、毎朝の晨朝(じんじょう)をはじめ、宗派の法要で大谷暢顯前門の後ろ姿を拝見させていただいたこと。光り輝くようでした。その後ろ姿を一生の目標としたい」

 「一番大事なのは、私も真宗門徒の一人であるということ。皆さまと一緒に聞法を続けることが大事な仕事です。もう一つは、大谷派宗憲を大事に守りながら、まっすぐに歩んでいくことです」

 「『ブラジル国籍だから』という特別な目標はありません。浄土真宗の教えは、国や人種、性別、年齢などに関わりなく、平等の世界を説いています。南無阿弥陀仏を世界中に届けるという大谷派のビジョンは変わりません。生きとし生ける衆生に、お念仏を届けたいと願っています」

 裕新門「私はブラジルの生まれで、国籍もブラジルです。開かれた浄土真宗の教えの下で、ブラジル人として精いっぱい務めたい。開教使だった祖父・大谷暢慶がブラジルで築いたご縁を忘れずにいたいです」

 「新門の勤めを果たすとともに、開教司教にも就任したので、海外のご門徒さんとの交流を深めたい。誰とでも膝を突き合わせて聞法する姿勢は、日本においても欠かせません」

科学と宗教、対立しない 裕新門

──2014年に後継者となり、日本に来られてからの思いを。

 暢裕門首「大切してきたのは、皆さんと一緒に聞法すること。その次は声明。儀式もしっかりと習う。この3点です。その他に、書道の稽古をしています」

 「国内の別院を巡って、日本は広い国だと感じました。その土地に合った食べ物があり、それぞれが大事にしているものを持ち続け、皆が同じように南無阿弥陀仏を唱える。ありがたいことです」

──科学と宗教の役割の違いは。

 暢裕門首「科学は人間が便利に生きるためのツール。一方、科学技術が発達しても、お釈迦さまの時代から何ら変わらず、人は生老病死の日々を生きています。科学技術を使う人の命を支えるのは、宗教心です」

 裕新門「科学と宗教は、どちらも真理を追究します。科学は人の外側を見ています。宗教は、苦しむ人間として生まれ、どう生きるかを課題としています。二つは対立しません」

──新型コロナウイルス感染症についての所感を。

 暢裕門首「差別や偏見を生み出す人間のありようを見過ごさないという視点が大切です。あらゆる人々を尊び、御同朋御同行の精神を一生懸命伝えることが、宗教者にできることです。宗派としては、『ウィズコロナ』の時代で、新しいテクノロジーに柔軟に対応する心構えが大切でしょう」

──大谷派の教えや浄土真宗についての思いは。

 暢裕門首「『私がこのままで助かる教えが南無阿弥陀仏』ということが第一。第二は『私の一生を支えていてくれるのはご縁』ということ。三番目は、『皆が平等である』こと。親鸞聖人をお手本とし、日々、正直に生きることを学んでいかねばなりません」

 裕新門「浄土真宗の特長は、絶対他力の教えではないでしょうか。如来に帰依することこそ、どんな人にも開かれる救済の道だといただいています」

──教団問題=用語解説=と門首の役割について、どのようにお考えでしょう。

 暢裕門首「教団問題が起こった頃のことは直接知りません。ただ、問題を通して成立した現在の大谷派の宗憲を大事なベースとして、何事も宗憲を基に門首の仕事を精いっぱい果たしたいと考えています」

──大谷派の教化活動のベースには同朋会運動があります。

 暢裕門首「同朋会運動は信仰運動です。同朋会運動を通して、世界の誰にでも開かれた平等の教えを皆さんと聞法しながら南無阿弥陀仏を伝えていく。その働きが世界平和につながってほしいと願っています」

──宗教にとって難しい時代です。求められる宗門になるには何が必要でしょう。

 暢裕門首「まずは子どもの宗教心を育てることでしょう。生きとし生ける者が平等で、『皆が助からないと私も助からない』ということを伝えたならば、十数年先に互いを尊ぶ社会になります。これは私自身が子どもの頃にブラジルへ渡り、実感したことです」

 裕新門「念仏者が生まれる場を作ることです。教えに出遇うとは何か、どういう形で伝えるべきかを考える必要があります」


        
【用語解説】同朋会運動(どうぼうかいうんどう=真宗大谷派)
 1961年の宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要を機縁に、その翌年に当時の訓覇信雄宗務総長によって提唱された信仰運動。「家の宗教から個の自覚へ」というスローガンが掲げられた。

【用語解説】教団問題(真宗大谷派)
 1969(昭和44)年、当時の大谷光暢法主が、内局の承認を得ずに管長職を長男の光紹氏に譲渡すると発表した「開申事件」を発端とする騒動。「同朋会運動」を推進する改革派と、大谷家や大谷家を擁護する保守派が対立し、後継者が次々と離脱した。最終的に光暢法主の三男、暢顯氏が96年に門首に就任し、沈静化した。〝お東紛争〟とも呼ばれる。

(文化時報2020年8月5日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

居場所づくりに宗教者協力 西成高校「となりカフェ」

 大阪府立西成高校(大阪市西成区)で生徒らの居場所となっている「となりカフェ」の運営に、金光教大阪センター(若林正信所長)が協力している。困難を抱える生徒らに、家庭でも学校でもない「サードプレイス(第三の場所)」を提供し、ドロップアウトを防ごうという取り組み。金光教の宗教者らが神前のおさがりとして食品を提供し、傾聴に当たっている。(主筆 小野木康雄)

西成高校の「となりカフェ」で、生徒の飲み物を作る金光教教師ら

 7月9日の昼休み。チャイムが鳴るとすぐ、男子生徒が駆け込んできた。「俺、きょう昼飯ないねん」。炊きたてのご飯をよそい、自分でおにぎりを作り始めた。

 となりカフェは校舎2階の相談室で、放課後を中心に月5回ほどオープン。食事を提供する目的で、昼休みや始業前に開くこともある。困窮家庭の子、ルーツが外国にある子、性的少数者の子。介護など家族の世話をする〝ヤングケアラー〟も少なくない。生きづらさを抱える生徒にとっては、等身大の自分でいられる貴重な居場所だ。

 1年の頃からカフェに通う3年の男子生徒(18)は、外見にコンプレックスがあって、人と接するのが苦手だという。それでも「ここにいる大人はフレンドリーで、区別なく優しく会話してくれる」。自分から話し掛ける勇気をもらい、友人ができたと笑顔で語った。

教会が後方支援

 となりカフェは、若者支援に携わる一般社団法人「officeドーナツトーク」(田中俊英代表)が2012年秋から行っている。同社団のメンバーに、神職に当たる金光教教師がいた縁で、金光教大阪センターが2019年5月から協力している。

 月例祭などで神前に供えられる食品を支援団体に送る「おさがりねっと」を構築。中近畿教区(大阪府、奈良県、和歌山県)の約20教会がサポーターとなり、大阪センターが事務局として物資の需給を調整する。となりカフェではお米が必要とされることが多く、9日には無洗米5㌔を贈った。

 また、中近畿教区青年室に所属する若手の金光教教師が月1回、活動を手伝う。保護者でも教職員でもない「第三の大人」として、同社団のスタッフと協働している。

 布教が目的ではない。金光教には、信者であるかどうかを問わず「皆、神の氏子」という考え方がある。教会から現場に出て、困っている若者を助け、学びを深めるための活動だ。

昼休みには炊き立てのご飯も提供

温かい目線で

 西成高校生徒支援室室長の森ゆみ子教諭(49)によると、となりカフェを設けたきっかけは、ある女子生徒が「家にキャベツしか食べ物がない」と語ったことだった。生徒らの遅刻や居眠りの背景に、貧困をはじめとするさまざまな困難が浮かび上がった。

 「成績を付ける教員と付けられる生徒という上下関係から離れて、ほっとできる居場所が必要」。そう考えて、カフェの運営を外部に任せ、教員がめったに寄り付かないようにした。勉強に向かうハードルを下げる授業や専門職との連携など、さまざまな取り組みと合わせて、中退率を下げることにもつながった。

 9日午後3時半。放課後のカフェにも、生徒が代わる代わる訪れた。ギターを弾いたり、ボードゲームに興じたり、おしゃべりをしたり。金光教教師とスタッフらは、生徒の飲み物を作りながら、さりげなく声を掛けて会話に入っていく。深刻な相談があれば、別室で対応するという。

 「officeドーナツトーク」の精神保健福祉士、奥田紗穂さん(30)は、金光教教師について「宗教者ならではの温かい目線で生徒に接してくれるし、思いが伝わってくる。今後も手伝いに来てほしい」と語る。

 金光教教師の青山信明さん(37)は「通ううちに、青少年と接することに慣れてきた。この経験を教会での対応につなげたい」。白神ナナさん(22)は「こちらが高校生から元気をもらえる。宗教者としての視野が広がり、成長できる」と話した。

オープン前には廊下に看板が出される

(文化時報2020年7月22日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

悲しむ私 見守る仏…震災支援から台風被災

 浄土宗大本山増上寺布教師会が東日本大震災で被災した宮城県岩沼市で開く「法話の会」に、主催者の一人として参加する郡嶋泰威・量寿院住職(50)=千葉県南房総市=は、2019年9月に千葉県を襲った台風15号の被災者でもある。支援する方とされる方、両方を経験して分かったのが、「娑婆世界=用語解説=では全ての人が快適に生きられない」ということ。だからこそ、念仏の教えが大切だと気付いた。(大橋学修)

浄土宗量寿院の郡嶋泰威住職

 浄土宗浄蓮寺(千葉県鋸南町)の長男として生まれた。幼い頃から僧侶になることに疑いを持たず、進学先は大正大学仏教学部浄土学コース。大学院に入ってからは、傳通院(東京都文京区)で実務にも励んだ。愚直に学ぶ真面目な青年僧だった。

 修士課程を終えた後も傳通院で勤務する傍ら、布教師養成講座に入行。話の組み立て方や高座=用語解説=に上った際の所作などを学び、高座説法の実演を行った際、指導員にこう指摘された。「あなたの信仰はどこにあるのだ。高座に上がる資格はない」

 思い返せば、全て理屈で考え、頭で組み立てただけだった。もう一度、ゼロから学び直すことにした。

 学んできた書物を改めて読み、宗祖の言葉に触れると、気付いたことがあった。「法然上人を見失わなければ、迷ったときに戻る所がはっきりする」。念仏行を続けることは、極楽往生を目指すことだと確信した。蓄積してきた知識に、信仰という芯が通った。

 「思えば、これが本当の意味で、僧侶としてのスタートだった。葬儀を勤める際には、『この方を救ってくださる阿弥陀さまがいてよかった』と感じるようになった。遺族にも、この気持ちを伝えられることを、本当にありがたいと思う」

震災遺族との出会い

 35歳で傳通院を退職してからは、布教師として各地を飛び回るようになった。2012年には大本山増上寺布教師会の活動で、東日本大震災の被災地に出向き、震災遺族や自死遺族のために法話を行う機会を得た。「現場を見てショックを受けた。遺族の方の悲しみの深さに打ちのめされた」

 それから毎年、縁のあった岩沼市を年2回訪問し、「法話の会」を開催してきた。その中で、教えを求める人が多いことに気付いた。「募っていたイライラが、法話を聴くと収まる」と話す人もいた。

 「訪問するには本当に勇気がいる。ただ、阿弥陀さまのことをストレートに伝えることが大切。余計なことはいらない」

 「法話の会」は、大切な人を亡くしたつらさを抱える人々が集まり、思いを語り合う場所にもなっている。ただ、震災から9年という時の流れとともに、「まだそんな所に行っているのか」と言われる人も出てきたという。

 「被災地であっても、自分の気持ちを迂闊に言葉に出せなくなっている。つらさや悲しみを安心して出せる場所が必要。心の支えがないと、心がもたない」。郡嶋氏は話す。

つらくても苦しくても

 郡嶋氏が住職を務める量寿院は、かつては住職がいなかった。縁あって入寺することになったが、本堂だけの寺院で、住む所がない。そのため、車で10分ほど離れた実家の浄蓮寺で住職の父と同居し、副住職として法務を勤めている。

 千葉県を中心に甚大な被害をもたらした2019年9月の台風15号は、関東地方に上陸した台風では観測史上最強といわれる勢力で、浄蓮寺も多大な被害を受けた。

 本堂の屋根が全て吹き飛ばされ、生活の場である庫裏や客殿の瓦が飛散。雨漏りによる浸水も深刻で、本堂はもとより、庫裏も使用不可となった。「一晩で壊れた。やはり、釈尊が説かれた諸行無常の通りだ」

 皆でなんとかやっていくしかないと、さまざまな人から支援を受けながら、復旧に取り組んだ。そこへ、被災から1年もたたないうちに猛威を振るった新型コロナウイルス。外出自粛を余儀なくされる状況で、被災時の心境がよみがえった。

 「つらい時も苦しい時も、阿弥陀さまは泣き暮れる私を抱きしめて、『つらいよな、苦しいよな』と泣いてくれる。ただ念仏申すだけで、必ず最後は極楽浄土に助けてくれる」

 そして、コロナ禍で閉塞する社会の人々に向けて語る。「独りじゃない。阿弥陀さまが見てくださっている」
        ◇
【用語解説】娑婆世界(しゃばせかい=仏教全般)
 汚辱と苦しみに満ちた現世を示す言葉。サンスクリット語で忍耐を表す言葉を音写したもので、浄土の対比語として用いられるため、「忍土」とも漢訳される。

【用語解説】高座(こうざ=仏教全般)
 説教を行う僧侶のために一段高く設けた席で、高座を設けた説法を「高座説法」あるいは「節檀(ふしだん)説法」と呼ぶ。説法が大衆芸能化したことで、後に寄席で芸を演ずる場所としても用いられるようになった。

(文化時報2020年7月15日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

【取材ノートから】人とつながることの意味 安岡遥

 新型コロナウイルスによる国内初の死亡者が確認されて間もない2月下旬、私は本紙記者への転職を機に、福岡県の実家から京都市へ移り住んだ。京都へ向かう新幹線の乗客は一様にマスク姿で、感染への懸念からか会話もまばらだった。同じように振る舞いながらも、その光景を少々異様に感じたことを覚えている。

 だが今では、外出時のマスク着用は当たり前。入社したばかりの職場でも、早々に在宅勤務が呼び掛けられ、電話やテレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じた取材が増えた。「人とのつながりがなくなっても、案外生きていけるものだ」。ふと、そんな思いが湧く瞬間があった。

 考えを改めるきっかけとなったのは、「Zoom」を利用して法要の配信を行う群馬県太田市の曹洞宗寺院、瑞岩寺への取材だった。

 住職は、「大切な法要に、感染を心配せず参加してほしい」との思いから「Zoom」による配信を提案する一方、「悲しみを癒やすという点では、対面での法要に及ばない」と強調した。

 「花や線香を買ってお寺に足を運び、故人を知る人同士で思い出を分かち合う。そうした営みの中で、人は死別の悲しみを癒やしていくものだ」。その言葉を聞いて、思い出す光景があった。

 私は3年前、5歳年上のいとこを登山中の事故で亡くしている。生前の彼とは挨拶を交わす程度の間柄で、会話らしい会話をした記憶はほとんどなかった。唐突に死を知らされ、「なぜ、もっと話しておかなかったのか」と後悔が残った。

 年忌法要で親族が集まるたび、叔母は彼の思い出を語り、涙を流す。子どもの頃の笑い話が、いつの間にか涙に変わっていく。その姿を見るのはつらかったが、他者と悲しみを共有するこうしたひとときが、グリーフ(悲嘆)ケアにつながっていたのではないかと思い当たった。

 コロナ禍の今、「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」を合言葉に、葬儀や法要が縮小されつつある。感染症で亡くなった故人と、最期の対面すら果たせなかった遺族もいる。こうした傾向が、寺院消滅に拍車を掛けるのではないかと懸念する宗教者は多い。

 だが、死や別れを誰もが意識せざるを得ない今だからこそ、他者と関わることに意味があるのではないだろうか。「宗教を必要としない世界の方が、実は幸せなのかもしれない。それでも人が宗教を求めるのは、大切な人を亡くす悲しみに耐えられないからだ」。そう語り、遺族らのつながりを模索する瑞岩寺住職の姿に、人との縁を見つめ直す機会をいただいた。

(文化時報2020年6月27日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

知性なくして信仰なし 迷走の20代、行き着いた先は

 「目に見えないものを大切にするためには、知性が必要だ」。浄土宗阿弥陀寺(奈良市)の森圭介住職(44)はそう語る。英語の教員免許と浄土宗教師資格を取得しながらも、マスコミ業界への就職を希望した20代を経て、行き着いた先は学習塾の開設だった。学力低下が宗教離れを招いている、との持論で活動を続けている。(大橋学修)

浄土宗阿弥陀寺の森圭介住職

マスコミか会計士か

 父は上宮学園の教員で阿弥陀寺の僧侶。息子を無理に僧侶の道へ導こうとするのではなく、「勉強を重ね、自分の力でのし上がれ」との教育方針だったという。

 森氏自身は清風中学・高校を経て、関西学院大学文学部に進学。マスコミ業界を目指して就職活動をしたが、失敗した。いったん休学し、英国東部オックスフォードの語学学校に留学。国際感覚をアピールして再挑戦したが、思うような結果は得られなかった。

 そんな折に、大手商社で勤務する高校時代の旧友から、ゴルフに誘われた。上場企業の重役だった旧友の父も加わり、移動中の車内では親子で経済について議論していた。全く付いていけず、自らの不明を恥じた。当時流行だった米国の公認会計士を目指せば、社会のことも分かるし、留学経験との整合もとれると考えた。ただ、このままでは格好がつかないし、収入もない。寺の法務を手伝うことで立場を取り繕おうとした。29歳になっていた。

 当時住職だった祖父は老いを深め、父は教員の仕事が忙しかった。いい口実になったが、公認会計士にはなれなかった。

英会話講師で目覚め

 僧侶資格は大学在学中に取っていた。進学時に取得するよう父に命じられていたからだ。夏季休暇中に浄土宗が開催する少僧都養成講座に入行し、大学4年のときに伝宗伝戒道場=用語解説=を満行して浄土宗教師となった。

 寺に入ったころ、大阪・西梅田で英会話教室を開こうとしていた友人から、講師として手伝ってほしいと声が掛かった。当初はビジネスマン向けで展開していたが、方向転換して奈良市内の高級住宅街で子ども向けの教室を開設。これが当たった。

 子どもたちの英語の成績が伸び、信頼を得るようになった一方、英語以外の成績が悪いと相談を受けるようになった。特別授業として、ほかの教科も教えるようになった。父と同じく、教えることが好きな自分に気付いた。

教育と寺院を融合

 自坊のことを考えるようになったのは、少僧都養成講座の同窓会「和合会」に参加していたから。寺院が地域に果たすべき役割や教えを伝えていくことの大切さを、仲間たちから学んだ。

 「なぜ寺には高齢者しか来ないのか。葬儀や法事ばかりでいいのか。本来は、人生のヒントや生きる糧を得られる場ではないのか」

 宗教離れの原因を考えるうち、現代の教育が、考える力を養えていないことに思い当たった。「解答方法を覚えることが中心で、目に見える効果だけを目的にしている」。目に見えないものを想像するためには、知性が必要との考えに至った。

 2015年4月、一念発起して「ならまち寺子屋学房」を開設した。コンセプトは「主体的に学ぶ姿勢を養う」。一般的な学習塾と異なり、寺子屋は教材を提供しない。学校やほかの学習塾の宿題を基に、課題を与える仕組みとした。

 短期的な成績アップを求められれば、一般の学習塾に通うことを勧める。「なぜ自分の答えが間違っているのか、理由を自分で追究してもらうことが大切。その理由に納得できたときに得られる喜びが、次の課題に向かう力になる」と、狙いを語る。

 寺子屋の開設と同時に、地蔵盆を復活させた。目に見えないものを想像する力を鍛えようと、紙芝居をしたり、法話を行ったり。将来は、セミナーや講演会など大人を対象にした寺子屋も開き、子ども向けと融合させる構想もある。

 知性を養った先には、何があるのか。森氏は言う。

 「人間は完璧ではない。自分が凡夫=用語解説=だと自覚することで、人を許せるし、寛容になる。その不完全さを認識するからこそ、阿弥陀さまの教えがありがたく感じられる」
         ◇
【用語解説】伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 浄土宗教師になるための道場。加行、加行道場ともいう。

【用語解説】凡夫(ぼんぶ=仏教全般)
 仏教の道理を理解しない者、あるいは世俗的な事柄にひたる俗人。

(文化時報2020年6月24日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

釜石の絆、神社に生かす 「弔いの神主」村上浩継さん

 坂本龍馬の葬儀を神道式で行ったことで知られる神社がある。京都市東山区の霊明神社。第9世神主の村上浩継氏(41)は、神社の葬儀「神道霊祭」を営む同神社の家系に生まれながら、東日本大震災の被災地に移住し、被災者と共に復興への道を歩んできた。〝弔いの神主〟は、神社の役割を見つめ直している。(大橋学修)

村上浩継(むらかみ・ひろつぐ) 1979年5月生まれ。滋賀県立大学大学院環境科学研究科の博士前期課程を満期退学した後、学校法人大和学園に就職。2014年から岩手県釜石市の臨時職員として就業するかたわら、地域振興を目指したボランティア活動を展開。19 年4月に京都に戻り、宗教法人神社本教を包括法人とする霊明神社の第9世神主に就任した。趣味は読書と映画鑑賞。独身。

震災後の無力感

 滋賀県立大学大学院で環境社会計画を専攻する傍ら、神職の資格を取得。満期退学後、調理師などの専門学校に就職し、マーケティング部門に配属された。広報活動や、高校の進路指導の教員らに情報提供する仕事で頭角を現し、部長職まで昇進した。

 2011年3月11日は、出張で出雲方面に向かっていた。気温が下がり、雪がちらつく悪天候。岡山県から山陰地方への峠越えは、ノーマルタイヤの社用車には過酷だった。坂道でスリップを繰り返し、死を覚悟した。

 なんとか出張先に到着し、遅めの昼食を取っているときに、ニュースで地震発生を知った。「こんな所にいる場合ではない」。大急ぎで自宅に引き返した。

 死を実感した日に震災が起きたことに、運命的なものを感じていた。ボランティアへの参加を切望したが、職場の多忙な業務から離れられない。ようやく条件が整ったのは、翌年の夏だった。

 訪れた宮城県南三陸町は当時、がれきがおおむね撤去されていたものの、復興は進んでいなかった。「数日間で帰らざるを得ないボランティア活動では、何もできない」。無力感が募った。

仮設住宅に転居

 「自分には、何ができるのか」。そう考えていたところに、岩手県釜石市役所が、広報部門で有期雇用の臨時職員を募集していることを知った。「自分には被災地と何のつながりもないが、広報なら今のスキルで支援できる」。両親の反対を押し切り、専門学校を退職した。

 転居先は、仮設住宅だった。被災者以外は住んでいなかった。市役所の上司ですら、溶け込めるかどうか心配したが、住民たちは「わざわざ復興のために来てくれてありがとう」と、温かく迎え入れてくれた。労働者が全国から集まる製鉄所のまちならではの寛容さだった。

 配属されたのは、広報部門ではなく、広聴係。職員の退職に伴い、配属先が変更されていた。窓口で市民の意見や要望を受け付けたり、担当部門へフィードバックしたりといった仕事が中心だった。それでも、広報紙やホームページに関連する業務に携わることができた。

 地域情報を発信するために市内各地を取材するうち、気付いたことがあった。「現地の活動が、外部に伝わっていない」。そういえば、震災からわずか1年後でも、京都市内で被災地の話題になることはめっきり減っていた。

 首都圏からボランティアで来た人が「釜石は元気がない」と話すことにも違和感があった。「東京と比べれば確かににぎやかではないが、小さいなりに活気のあるまち。地域のことが理解されていない」

 釜石は、東日本大震災の前にも、1896年の明治三陸地震や1933年の昭和三陸地震で津波に襲われ、太平洋戦争末期には米英から2度の艦砲射撃を受けた。人々には、甚大な被害を受けるたびに立ち上がる力強さがあった。

 地域の情報を、地域の人々が、地域の外に届けることが大切ではないのか。取材先で知り合った有志と共に、広報の勉強会を立ち上げた。

 こうした関わり合いが、京都に戻ってから新しいことを始めるヒントになった。釜石と京都、どちらの活動にも共通する原点は、「自分には何ができるのか」という飽くなき自問だった。

事業を始めたものの… 

 引き続き仮設住宅で暮らしながら、復興を目指して地域の情報発信に取り組んだ。大学院でワークショップの運営などを通じた市民の場づくりを研究したことや、前の勤務先でマーケティングを担当した経験を生かし、さまざまな人々と交流した。

 地元の人から、風光明媚な知られざる名所として、釜石市の尾崎半島を紹介された。「観光拠点として、地域活性化につなげられないだろうか」。トレッキングコースを整備する資金を捻出しようと、観光客に現地を案内する事業を始めた。

 だが、事業が軌道に乗りはじめた17年5月、尾崎半島で森林火災が発生した。鎮圧までに8日を要し、延焼面積は阪神甲子園球場107個分に相当する413㌶余りと、前年の全国の森林消失面積を上回る大規模な火災となった。

 観光開発は振り出しに戻ったが、めげることなく地元の森林組合と協力し、復旧に取り組むことにした。

釜石のため、京都へ

 市役所での雇用は3年が期限だったが、その後は1年ごとに更新できた。2度の延長を経て、6年目を前に退職を決めた。全国の自治体から派遣されていた職員が撤退する一方、業務量は減っておらず、市役所は多忙を極めていた。上司をはじめ、周囲からは一様に引き止められた。

 「自分がこのまま定住するなら、残ってもよかった。だが、いずれは神社のために京都に帰らなければならなかった。復興ではなく市役所の通常業務のために残るのは、地域の雇用を奪うことになると思った」

 19年4月に京都へ戻った。神主として祭事を行いながら、一般企業に就職することを考えた。「社会問題に関われる仕事はないだろうか。釜石にいた頃と同じぐらいの熱量で取り組めることはないか」

 釜石の仮設住宅は、ばらばらの地域から被災者が入居していた。住んでいた地域で祭事が行われる際は、神社に集まった。神社が地域社会を支える役割を果たし、心のよりどころとなっていた。

 「外に求めなくてもいい。足元に神社があるじゃないか」

〝ソーシャル神社〟を目指す

 霊明神社は、神道を信仰した村上都愷が、1809(文化6)年に創建した。寺請制度=用語解説=で統制された時代に、神社が弔いの儀式を営むことは難しかったが、全てを神に委ねるとする精神「惟神(かんながら)の道」を徹底するため、神道式の葬儀「神道葬祭」を始めた。

 霊明神社には、氏子がいない。坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの葬儀を行ったことで知られるものの、一般参拝者も少ない。ただ、「神道霊祭」を行うことから墓地を持っており、寺院の檀信徒に相当する「社中」が存在する。年忌法要に当たる「年霊祭」も行っている。

 ここからもっと、地域に開かれた神社になることはできないか。「霊明神社を、人々のよりどころにしたい。社会のために存在する〝ソーシャル神社〟にしたい」

 いろいろな人々が神社の座敷で思いを語れるイベント「霊明の縁むすび」を、毎月開催するようになった。最初は、知人を通じた参加者が主だったが、会員制交流サイト「フェイスブック」や神社のホームページで告知すると、これまで関わりのなかった人も集まるようになった。

 弔いの儀式を営むことも、人々のよりどころとして神社を位置付けることも、村上氏にとっては同じことなのだという。

 「祓うという行為には、二つの意味がある。一つは、未練を祓って神になること。もう一つは、残された人の悲しみを祓うこと」

 たとえ神道が死を穢けがれと捉えているとしても、弔いは必要だ。亡くした人が大切であればあるほど、悲しみやつらさは大きい。そして、神社は心のよりどころになる―。こうしたことも、釜石で学んできた。

 「神道にはできないとされてきた葬儀を行った神社だからこそ、できることはたくさんある。誰かの居場所になれるようにしたい」。弔いの神主の挑戦は、これからも続く。

【用語解説】寺請制度(てらうけせいど)
 江戸幕府の宗教政策で、キリシタンなど禁制宗派の信者でないことを、寺院に証明させた制度。葬祭を通じて檀那寺(だんなでら)と檀家(だんか)の関係を固定する「寺壇制度」の確立につながった。

(文化時報2020年6月17日号・20日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム