文化時報プレミアム」カテゴリーアーカイブ

「看仏連携」初の研修会 まず病院内から

 看取りやスピリチュアルケア=用語解説=を巡って看護師と僧侶の連携を目指す「看仏連携研究会」の第1回研修会が10月11日、オンラインで開かれた。「病院内における看護師と僧侶の連携と協働」をテーマに、約30人が講演やグループワークで学びを深めた。

オンラインで行われた看仏連携研究会の第1回研修会

 看仏連携研究会は、臨済宗妙心寺派僧侶で、医療経営コンサルティングなどを手掛ける株式会社サフィールの河野秀一代表取締役が呼び掛けて設立。研修会を通じ、病院・看護師と寺院・僧侶を結び付けることを目的としている。

 研修会では、長岡西病院ビハーラ病棟(新潟県長岡市)で約10年間、常勤ビハーラ僧を務めた森田敬史龍谷大学大学院教授の講演ビデオを上映。森田教授は「僧侶が患者に関わることの即効性は、限られている」と指摘した上で、「心に響くポイントは、患者それぞれ。何げないお世話を通じて関係性を作り、アンテナを張っている」と、僧侶の役割を語った。

 続いてパネルディスカッションとして、浄土宗僧侶で松阪市民病院緩和ケア病棟(三重県)の臨床宗教師、坂野大徹氏と、がん看護専門看護師の小山富美子神戸市看護大学准教授が、それぞれの立場から連携のポイントを語った。小山准教授は事前収録で臨んだ。

 また、2020年5月に訪問看護ステーション「さっとさんが願生寺」(大阪市住吉区)を開所した浄土宗願生寺の大河内大博住職が、自身の取り組みを紹介。僧侶は医療・福祉との連携を通じて公共性を身に付けることや、患者・家族のスピリチュアルケアに当たることが問われるとした上で、「寺檀関係以外の関係をいかに紡ぐかが重要」と述べた。

 その後、参加者が3~4人ずつに分かれ、鍋島直樹龍谷大学大学院教授の司会で「看取りで必要なもの」について意見交換した。

 公益社団法人大阪府看護協会の高橋弘枝会長は「僧侶と看護師は互いの専門性を生かしてチームを組むべきだ。この活動をどんどん続けていかなければならない」と強調。「僧侶は看取りにこだわらず、生き方を支えるアプローチをしてもいいのでは」と話した。

 登壇者の主な発言は以下の通り。

「対機説法」が有効
龍谷大学大学院教授・森田敬史氏

 私が常勤ビハーラ僧として10年間勤務していた長岡西病院ビハーラ病棟(新潟県長岡市)は「お坊さんのいる病棟」として認知されていた。仏堂では朝夕の勤行があり、その様子は病室のテレビに中継されていた。

 ビハーラ僧は、何げない身の回りのお世話を通じて、患者との関係性を構築している。心に響くポイントが違うので、型にはまったケアのメニューを作るのではなく、その場で対応することが重要。「対機説法」の考え方が有効だ。あえてふらふらしてアンテナを張り、空気感をキャッチする。

 「宗教者は救いの世界に導いてくれる」「心のケアの専門家だから安心だ」などと、医療者からは期待されているかもしれないが、即効性が確認できるのはほぼ一部。宗教者は、生き切ろうと一生懸命な人に、心を寄せることしかできない。無力な自分をしっかりわきまえておく必要がある。

 医療者は0か1かのデジタル的アプローチをするが、宗教者はアナログ的アプローチを試みる。隙間産業のような状態を作り出すことを目指すといえる。

 宗教者には、医療者の負担をなくすことは難しいが、軽くすることはできる。生死の問題に関われるのも、宗教者ならではだろう。

布教・伝道は目的外
松阪市民病院緩和ケア病棟臨床宗教師・坂野大徹氏

 スピリチュアルペインはがんと診断されたときから生じる。告知を受け、診察室から出たとき、患者は誰かに話を聞いてほしいという思いになる。この時点から、緩和ケアは必要だ。

 松阪市民病院緩和ケア病棟には、最期を迎える方が入院する。理念は「静かに自分自身を見つめる場」。これ以上治療を望めない人が、自分の来た道を振り返る。その中で臨床宗教師は、亡くなるまでのスピリチュアルケアを担い、亡くなった後は患者が所属する宗教・宗派の宗教者や遺族会にバトンタッチする。

 出勤日は、朝の申し送りで患者の状態を確認し、午後のカンファレンスに参加する。症例検討会に出席することもある。各病室を必ず1回は訪れ、患者と話をする。話ができない状態でも、聞こえている前提で、家族といろいろな会話をする。談話室で一緒にお茶を飲むこともある。病棟の行事や外出支援も行う。

 布教・伝道を目的とした活動はしていない。こちらから宗教的な話はしないし、尋ねられれば宗教・宗派を問わず、自分の知識を基に答えている。ただ、患者から求められて、御詠歌のCDを貸したことや、双方了解の上で般若心経を唱えたことはある。

葛藤に寄り添って
神戸市看護大学准教授・小山富美子氏

 医療現場で看護師が僧侶に期待することは、二つある。一つは、生きること・死ぬことに関する現場の葛藤に寄り添い、一緒に考えてくれる存在であること。もう一つが、死への恐れと専門職としての成長の間で葛藤する若い看護師の「揺らぎ」への支援だ。

 僧侶には、チームに入って、スピリチュアルペインを抱える患者・家族の直接的なケアやサポートをしてほしい。看護師にとっては、スピリチュアルペインのことを分かっている人がそばにいることは心強いし、スキルアップにもつながる。

 緩和ケア病棟では、亡くなった後に患者のことを振り返る「デスカンファレンス」を行い、悲嘆を支え合っている。ただ、多忙で時間の確保が難しく、建設的な意見交換が目的なのに、責められている感情になることもある。僧侶が加われば、違う視点を示せるはずだ。

 新型コロナウイルスの影響で、2020年度卒業の看護師は実習を十分に受けていない。自分の死生観を問い直したり、素直に話し合ったりする環境がない。そうした若い看護師への支援も含め、ケアを一緒に考えてくれる人、そばに寄り添ってくれる人として、僧侶には同じチームにいてほしいと願っている。

寺檀以外の関係紡ぐ
浄土宗願生寺住職・大河内大博氏

 訪問看護ステーション「さっとさんが願生寺」(大阪市住吉区)を2020年5月に開所した。社会と寺院が困難を抱える中、これからどんな時代を生きるのかを考えたことが出発点となった。

 寺檀制度が限界を迎え、墓じまいや仏壇じまいが進んでいる。新型コロナウイルスの影響で、儀礼の簡素化も進んだ。檀家というメンバーシップは弱体化せざるを得ない。

 日本は人口減少と高齢化で他の先進国にない事態を迎える。社会保障や死生観も変化するだろう。いずれは宗教者らが医療・福祉に関わるが、今は時期尚早で、本番は2030~50年ごろではないか。それに向けて、鍛錬しておく必要がある。

 さっとさんが願生寺は、ケアの専門職を在宅医療の現場に派遣する「スピリチュアルケア在宅臨床センター」と両輪だと考えている。目標は、社会全体に仏教精神を伝えることだ。

 大切なのは、僧侶が公共性を持って、どう多職種連携できるか。世代間をいかにつなぎ、多様な価値観を尊重し合えるかだろう。

 地域によって課題は違うが、寺院は寺檀関係以外の関係を紡ぐ必要がある。社会の中でさまざまな人と支え合い、信頼関係を育む役割があるのではないか。
            ◇
【用語解説】スピリチュアルケア
 人生の不条理や死への恐怖など、命にまつわる根源的な苦痛(スピリチュアルペイン)を和らげるケア。傾聴を基本に行う。緩和ケアなどで重視されている。

(文化時報2020年10月17日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

交通安全の花咲かそう お寺×警察×支援学校

 浄土宗大本山くろ谷金戒光明寺(京都市左京区)は、京都府警川端署と京都市立白河総合支援学校(同区)との協働で、命の大切さを伝える「ひまわりの絆プロジェクト」を開始した。全国の警察署が交通事故防止を訴える活動に、大本山が協力。地域活動の輪が広がりを見せている。(大橋学修)

金戒光明寺の花壇に苗を植える「ひまわりの絆プロジェクト」の参加者ら

 「ひまわりの絆プロジェクト」は、2011(平成23)年に京都府南部で起きた交通事故で、当時4歳の東陽大(あずま・はると)君が亡くなったことをきっかけに始まった。陽大君が幼稚園から持ち帰っていたヒマワリの種を、生きた証しとして育て、交通安全の輪を広げて命の大切さを伝える取り組み。全国の警察署が推進している。

 5月26日、金戒光明寺の高麗門前に新設した花壇に、プロジェクトのヒマワリの苗30株を植えた。育苗を手掛けた白河総合支援学校の生徒12人と共に、川端警察署黒谷交番の堀大介巡査部長や金戒光明寺の職員、地域住民らが参加した。

 今回の取り組みに合わせて、金戒光明寺ではヒマワリ模様の特別御朱印の授与を開始。集まった浄財の一部を京都犯罪被害者支援センターに寄付し、犯罪や事故の抑止活動に生かしてもらう。

 浦田正宗執事長は「ヒマワリが育つ様子を楽しみながら、地域の人々の心が潤ってほしい」と話し、堀巡査部長は「白河総合支援学校に育ててもらった初めての苗。亡くなった陽大君と同世代の生徒たちが植え付けることも感慨深い」と語った。

子ども食堂が契機に

 「ひまわりの絆プロジェクト」の実施は、金戒光明寺の職員有志が3月から行っている「くろ谷子ども食堂」に、川端警察署が参加するようになったことが契機になった。金戒光明寺と交流を持つようになった黒谷交番の堀巡査部長が提案し、金戒光明寺が地域貢献の一環として快諾した。

 川端署は、世代を重ねるたびにヒマワリの発芽率が下がっていくのを打開しようと、農園芸専門教科がある白河総合支援学校に育成を依頼。同校と金戒光明寺の縁を紡ぐことになった。

 白河総合支援学校は、高等部単独の職業訓練学校。社会貢献を通じて、生徒たちが就労意欲を高めることを目指しており、今回のプロジェクトへの参加もその一環と捉えている。今後は農園芸専門教科で育てた野菜の提供などを視野に、くろ谷子ども食堂への参加を検討する。

 白河総合支援学校の筧薫(かけひ・かおる)教諭は「自分が人の役に立っていることを感じることで、自己肯定感を持ってもらい、働く意欲を高めてほしい」と話した。

 子ども食堂を通じた寺域の開放により、わずか3カ月で地域での交流が進む金戒光明寺。職員の伊藤英亮氏は「顔の見える関係をつくることで、互いに支え合い、安心して暮らせる地域にしたい」と話した。

(文化時報2021年6月21日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

尼僧は死に際に、満面の笑みを見せた

 大手ゴムメーカーの社長を父に持つ浄土宗西遊寺(京都府八幡市)の和田恵聞住職は、これまでの人生で何度も目標を見失ってきた。浄土宗僧侶の家系に生まれながらも、育った環境は寺院と関わりの少ない一般家庭。それが、大本山百萬遍知恩寺の布教師会員として活動するほどまで信仰を渇望したのは、ある尼僧の死を経験したからだった。(大橋学修)

医師の道を断念

 少年の頃は、病弱だった祖母のために、医師を目指していた。だが、中学受験で志望校に合格できず、挫折。中学3年の頃には、学校に行かず遊び歩くようになった。

 母からは「悪いことはするな」「学校に行かなくても勉強はしろ」「体を動かせ」と命じられた。学習塾に通い、ゴルフ練習場の後片付けを手伝いながらゴルフを練習したおかげで、大きく道を外すことはなかった。

 高校は、浄土宗立学校の東山高校へ。浄土宗僧侶の伯父に「東山高校はスポーツが強い」と勧められたためだった。入学後はラグビー部に入り、苦楽を共にするチームメートと、同じ方向を目指すことができた。

 大学受験は、僧侶になる気がなかったにもかかわらず、佛教大学仏教学科を目指すことになった。友人らが志望していたことや、担任から「親戚に浄土宗僧侶が多いのだから」と勧められたことがきっかけになった。

海外での活躍夢見る

 無事に入学したが、僧侶になる気は元々ない。1年生を終えて休学し、ラグビー強豪国のオーストラリアに留学した。初めて親元を離れたことで、親のありがたみを感じるようになり、日本人としての誇りやアイデンティティーを持つ自分にも気付いた。

 いつしか、世界を股に掛けるスポーツジャーナリストになることを夢見るようになった。「国際人は皆、大学を卒業している」と両親に諭され、帰国して復学することを決めた。

 2年生の秋、友人が「うちで五重相伝=用語解説=を開くから手伝いにこないか」と誘いを受けた。生まれて初めて僧衣をまとい、塗香を参加者の手のひらに渡す役割を担った。儀式の中で、人が変わる姿を見た。「サラリーマンは、一緒に仕事をしていても、根底はライバル。僧侶は、利害関係なく協力し合い、同じ目標に向かう」。父からそう聞いたこともあって、僧侶に興味を持つようになった。

 卒業間近の年末に伝宗伝戒道場=用語解説=に入行。阿弥陀如来と一対一で対話しているような感覚の中で、充実した時間を過ごした。ただ、その感覚は道場を終えると霧散してしまった。

百萬遍布教師会の会員として後進の指導にも当たる(写真は百萬遍知恩寺の中庭)

代務の不自由さ

 卒業後の身の振り方は、いつの間にか伯父が決めていた。広島県呉市の瑞雲寺で1年間、随身=用語解説=を務めた後、大阪市の地蔵寺で代務住職になった。

 入院している70代の尼僧住職の代役。ただ、寺には〝姉弟子〟に当たる80代の尼僧と、認知症が疑われる百歳近い先代住職が同居していた。

 全員が突然やってきた和田氏を受け入れようとしない。話もほとんど通じない。それなのに法務は任されるし、住職の入院先ともやりとりしなければならない。思うようにならない毎日の始まりだった。

 5年目に、病院から連絡があった。住職が危篤だという。駆け付けると血縁関係もないのに、延命治療を行うかどうかの判断を突き付けられた。2時間後、住職は息を引き取った。これが生まれて初めて、臨終に立ち会った経験だった。動転して、掛けるべき言葉も、行うべき儀式も分からなかった。

 喪主として葬儀を執行することになったが、後ろめたかった。出棺前に花を手向けるとき、恐ろしい顔でにらみつけられるのではないかと、おびえながら亡きがらをはすに見た。

 満面の笑みだった。

 中陰法要=用語解説=を務めるたびに、笑顔の意味を考えた。満中陰になって、ようやく分かった。「私を見ているのではなく、阿弥陀仏にお任せすればいいという笑顔なんだ」。それ以来、葬儀や法要に臨むときの心境が変わった。

 「仏さまは存在するか否かではなく、いてもらわないと困る」

 目標を見失い続けた先に、どうしても伝えなければならないという真実の教えに出会った。布教師になり、今では道場の運営を通じて後進の育成にも当たる。

 和田住職は言う。「今でも模索し続けています」
        ◇
【用語解説】五重相伝(ごじゅうそうでん=浄土宗)
 浄土宗第7祖の聖冏(しょうげい)上人が確立した宗脈と戒脈によって構成される伝法制度の総称。五重相伝会の略称としても用いられる。五重相伝会は、檀信徒が一堂に会して、5日間の日程で実施。初重、二重、三重、四重、五重の順に法話やお勤めを行い、念仏の奥義を口伝する。

【用語解説】伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 浄土宗教師になるための道場で、総本山知恩院と大本山増上寺で開かれる。加行、加行道場ともいう。

【用語解説】随身(ずいしん=仏教全般)
 本山などで作務に従事しながら、法務や教えを学ぶ初心の僧侶。

【用語解説】中陰法要(ちゅういんほうよう=仏教全般)
 故人が亡くなった日から49日間、7日ごとに行う法要。7日目に行う法要を「初七日(しょなのか)」と呼び、最後の法要を「満中陰(まんちゅういん)」あるいは「四十九日忌(しじゅうくにちき)」などと呼ぶ。『瑜伽(ゆが)論』『預修十王(よしゅじゅうおう)生七経』『地蔵十王経』などの教説に基づいて営まれるようになった。

(文化時報2020年11月21日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

ビハーラから地域包括へ 東西本願寺僧侶ら勉強会

 東西本願寺の僧侶が宗派を超えて医療・介護従事者と連携する動きが、富山県南砺市で始まった。同市政策参与を務める南眞司・南砺市民病院前院長の呼び掛けで、市内の僧侶約20人が1年半前から協議。11月7日には、チームを組む医師、看護師、ケアマネジャーらとの初の意見交換の場となる「看仏連携勉強会」を南砺市地域包括ケアセンターで開いた。宗教者が行政の協力を得て地域包括ケアシステム=用語解説=に参画する新たな取り組みとして注目を集めそうだ。(編集委員 泉英明)

それぞれの立場で話し合った「看仏連携勉強会」

 勉強会では、田代俊孝仁愛大学学長が「医療者と僧侶が協働し、地域共生社会の実現へ―地域包括ケアにおける医療と宗教の連携の可能性」と題して講演した。

 田代学長は、ビハーラ=用語解説=の経緯や、仏教を学ぶ医療者による「ビハーラ医療団」の結成などを振り返った。「仏教は悩んでいる人のためにある。死にゆく身のまま『私でよかった』と受け止められるような価値観の転換が僧侶の仕事」と指摘。その上で「医療者も介護者も宗教者も一人では何もできない。チームを組み、一緒に気付いていく学びを進めてほしい」と、協働を呼び掛けた。

 参加した約60人は、それぞれの立場で意見や質問を出した。訪問看護を行う看護師は、患者の物語を聞くことの難しさを明かし、介護職員は「今こそ僧侶の出番では」と語った。

 また、別の訪問看護師が、家族に自身の考えを言えずに我慢する患者がしばしばいることを話すと、ケアマネジャーが、担当者会議で情報交換しながら解決につなげる形があることを示す場面もあった。

 浄土真宗本願寺派の栗山宣雄本福寺住職は「今でも公立病院には僧衣姿で入れない。檀家制度を含めて根本的な課題はあるが、医療者側からの働き掛けで始まった取り組みでもあり、宗派を超えて今後につなげたい」と語った。

講演する田代俊孝仁愛大学学長

「幸せ度」向上に力を

 東西本願寺僧侶による協議は、南眞司・南砺市民病院前院長の働き掛けで、真宗大谷派の太田浩史大福寺住職らが宗派を超えて地域医療に貢献しようと呼び掛けてきた。

 1年半前から在宅介護や終末期医療の現場、臨終説法などについて定期的に意見交換。今回の看仏連携勉強会は、医療・介護従事者と僧侶が広く連携する第一歩となった。

 「私の父が亡くなる直前、僧侶が臨終説法をする姿があった。今は、一対一で対機説法をする機会はほとんどないと聞く。地域の中でお寺が本来の役割を果たしてほしい」。南前院長は僧侶への期待をそう話す。

 協議を開始した直接のきっかけは、南砺市が実施した「幸せ度」に関するアンケートだった。要介護認定で最も重い「要介護5」とされた人の11.7%が「とても不幸」と回答。市内の70代女性の自殺率が全国平均の3倍以上の水準に達し、しかもその全員が家族と同居していたことが明らかになった。

 南前院長は医療者であると同時に、南砺市の政策顧問として、地域包括ケアシステムの推進に尽力している。「医療者や介護者は懸命に患者を支えているが、まだ足りない」と考え、南砺市に熱心な浄土真宗門徒が多いとに着目。大谷派井波別院瑞泉寺の暁天講座への出講を機に、東西本願寺の僧侶との連携を構想したという。

 今回の勉強会を共催した南砺市訪問看護ステーションの吉澤環所長は、在宅看護の現場で、家族が僧侶に患者へ話をするよう求め、穏やかな死を迎える姿を目の当たりにしたという。「医療者も寄り添うことを心掛けるが、どうしても常識から入ってしまう。命の終わりが決して最後ではないことを説いてほしい」と話す。

 田代俊孝仁愛大学学長は「医療従事者の理解を進めようとビハーラ医療団を立ち上げて活動してきたが、行政や医療界が僧侶と連携する例はまだ少ない。ビハーラ活動が刑務所・拘置所での教誨師のように、地域に根付いた活動になってほしい」と、南砺市での取り組みに期待を寄せた。
      ◇
【用語解説】地域包括ケアシステム
 誰もが住み慣れた地域で自分らしく最期まで暮らせる社会を目指し、厚生労働省が提唱している仕組み。医療機関と介護施設、自治会などが連携し、予防や生活支援を含めて一体的に高齢者を支える。団塊の世代が75歳以上となる2025年をめどに実現を図っている。

【用語解説】ビハーラ(仏教全般)
 サンスクリット語で「僧院」「身心の安らぎ」「休息の場所」などの意味。仏教ホスピスに代わる用語として、当時佛教大学の研究員だった田宮仁氏らが1985年に提唱した。その後、主に浄土真宗本願寺派が、医療・福祉と協働し、生死にまつわる人々の苦悩を和らげる仏教徒の活動を「ビハーラ活動」と称するようになった。

(文化時報2020年11月18日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

性的少数者の龍谷大生が語る「他者への優しさ」

 浄土真宗本願寺派の宗門関係学校、龍谷大学で10月23日、学内外に向けたオンライントークイベント「LGBTQ+を語る」が開かれた。文学部臨床心理学科3年の山崎ゆきあさんが、性的少数者の当事者として経験を語り、知識と想像力に基づく「優しさ」の重要性を訴えた。(安岡遥)

当事者の山崎ゆきあさん

 山崎さんは、男女のどちらにも当てはまらない性で、中性・両性・無性など、個人によってさまざまな傾向がある「エックスジェンダー」にあたる。身体的には男性で、精神的には男女の中間である「中性」と、いずれにも属さない「無性」の状態を行き来しているという。「中性の状態では、服装や所作を女性に近づけることで身体の性とのバランスを取るが、無性の状態では男性の身体を受け入れることもできる」と話す。

 “山崎ゆきあ”は通称名で、学内でも使う。「出身地について話すように、セクシュアリティー(性)を語れる世の中を作りたい」との思いから、学内の講演会や会員制交流サイト(SNS)を通して自身の考えを発信してきた。

 2019年は、浄土真宗の精神に基づく学生の活動を大学が支援する「仏教活動奨学生」に応募。より多くの人々に性的少数者の存在を知ってもらうためのラジオ番組の制作などを通して、「学内から学外へ、私の声が届く範囲を少しずつ広げていきたい」と意気込みを語る。

多様性、真に認めて

 山崎さんは、幼い頃から自身のセクシュアリティーに違和感を抱いていたという。趣味や好みが女性に近く、男性として扱われることになじめなかったが、女性としての接し方を望む気持ちもなかった。

 大学の講義をきっかけに、エックスジェンダーという言葉を知り、当事者であることを自覚。「救われた気持ちになった」と振り返る。

 一方で、「言葉や概念を知ることと理解することはイコールではない」と指摘。

 例えば、LGBTの呼称は、女性の同性愛者レズビアン(L)、男性の同性愛者ゲイ(G)、両性愛者バイセクシュアル(B)、身体の性と心の性が異なるトランスジェンダー(T)の頭文字を取っている。

 性的少数者全般を表す意味で使われることもあるが、自分の性別が分からないクエスチョニング(Q)やエックスジェンダーなど、LGBTに含まれないセクシュアリティーの知名度は依然低い。「性的少数者は普通と違う、かわいそうな存在だ」などと誤った認識にもつながりかねず、過剰な配慮を一方的に押し付ける「逆差別」が起きる場合もある。

 こうした問題について、山崎さんは「多様性という言葉が誤って理解され、多様性を認めない姿勢が悪とされてきたことが一因」と分析。「そもそも、差別や偏見は誰の心にもある。問題はそれを外に向け、相手を攻撃することだ」と力を込める。

 その上で、行き過ぎた配慮や特別扱いではなく、正しい知識と相手への想像力に基づく「優しさ」が必要だと強調。「多様性とは、自分と違う存在を『さまざまな人がいる』と受け止めること。他者を完全に理解することは不可能だと知った上でなお、知る努力や想像する努力を続ける必要がある」と、山崎さんは呼び掛けた。

社会の10年先を行く

 自分がどの性に当てはまると感じるか(性自認)、どの性に性的魅力や恋愛感情を覚えるか(性的指向)などに基づいて、男女以外にも多様なセクシュアリティーが存在することが、国内でも近年、広く知られるようになった。

 浄土真宗を建学の精神とする龍谷大学は2016年、性的マイノリティーの現状を把握する目的で、学生と教職員を対象にアンケートを実施。回答者の15%が性的マイノリティーであることを自認し、セクシュアリティーへの無理解な言動にしばしば直面している状況が明らかになった。

 そこで大学は、学生らがセクシュアリティーを理由に差別やハラスメントを受けることなく生活できるよう、人権問題などに取り組む宗教部を中心にさまざまなサポートを展開している。

 宗教部の安食真城課長は「私たちは、ともすれば自分の感覚が『普通』だと思い込みやすい。良かれと思って気を回しすぎ、逆に相手を傷付ける場合がある」と指摘。「何をするにも、まずは当事者の話を聞くことから」として、セクシュアリティーについて気軽に語り合える茶話会や相談室を設けている。

龍谷大学宗教部の安食真城課長

 学生の意見を踏まえた取り組みの一つに、性別や障害の有無などにかかわらず使用できる「だれでもトイレ」がある。「男女別のトイレだけでなく、性自認に応じて選択できるトイレがほしい」との要望をきっかけに「多目的トイレ」から名称を変更し、京都市と大津市の全学舎に計60カ所以上設置されている。

 また、山崎さんのように、戸籍上の名前と異なる通称名で過ごすことを希望する学生も少なくない。将来戸籍名を変更する場合、通称名の使用実績が考慮されることを踏まえて、大学が発行する証明書や出席名簿に通称名を記載できる制度の整備を検討しているという。

 「若い世代が集まる大学は、社会の10年先を行く必要がある。支援を必要とする学生がいつでも気付いてくれるよう、今後も取り組みを発信し続けたい」と、安食課長は展望を語った。

(文化時報2020年11月7日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

太閤桜よ東北に咲け 「京の杜プロジェクト」定着

 真言宗醍醐派の総本山醍醐寺(仲田順和座主、京都市伏見区)が、東日本大震災で被災した東北の小学校に桜を届ける活動を着実に続けている。「京の杜プロジェクト」と題した取り組みで、地元の小学生らが太閤しだれ桜のクローン苗木を育て、毎年1本ずつ現地の小学校に贈ってきた。「命がつながっていることを、子どもたちに伝えたい」。震災は来年、発生から10年を迎える。(主筆 小野木康雄)

岩手県宮古市の市立津軽石小学校で行われた「京の杜プロジェクト」の植樹式=2017年3月

児童らが苗栽培

 京の杜プロジェクトは、醍醐寺と住友林業株式会社、KBS京都による共同企画として2012年度にスタート。京都市立醍醐小学校と立命館小学校の児童らが参加してきた。

 太閤しだれ桜は、1598(慶長3)年に豊臣秀吉が醍醐寺三宝院で催した「醍醐の花見」ゆかりの桜。貴重な品種を後世に残そうと、住友林業が2000年、クローン技術による増殖に成功した。

 児童らは、このクローン苗木を1年かけて育てる。まず秋に、育成用の堆肥を作るための落ち葉を、醍醐寺の境内で集める。春には苗木を受け取り、観察日記をつけるなどしながら栽培。翌年3月、児童代表が醍醐寺僧侶らと共に被災地の小学校を訪れ、植樹式に臨む。
 
 この間、児童らは醍醐寺での歴史学習や住友林業による環境学習など、関連するさまざまな勉強に取り組む。

自然と手を合わせる

 「東北の方々の思いや願いを直接知ることができた」「私たちも亡くなった人と通じ合えた気がした」
 
 醍醐小学校の元校長、林明宏氏の著書『宮古へ届けた醍醐の桜 「京の杜プロジェクト」醍醐小学校の軌跡』(大垣書店)に掲載された京都の児童らの感想だ。逆に、被災地の子どもたちからは「将来、醍醐寺をお参りして桜を見たい」との声が聞かれるという。

 一連の学習では、こうした交流を重視している。

 14年3月、京都から児童らが初めて被災地を訪れたとき、岩手県宮古市田老地区の防潮堤で、仲田座主は「まだ帰ってきていない命がある」と語り掛けた。津波で流されて行方不明になった人々のために、一心に拝むのだと説明すると、児童らは自然と手を合わせた。

植樹式前日には、宮古市内の防潮堤で総本山醍醐寺による法要が営まれた

 今年3月には、立命館小学校の児童らが福島県いわき市の小学校を訪れて植樹する予定だったが、新型コロナウイルスの影響で訪問は取りやめとなった。

 立命館小学校の長谷川昭校長は「震災を知らない子どもたちが増えており、プロジェクトは震災や復興の意味を学ぶまたとない機会。訪問は中断しているが、自分たちの育てた桜が被災地で花を咲かせることに思いをはせてほしい」と話す。

僧侶ならではの支援

 京の杜プロジェクトが始まったきっかけは、醍醐寺による震災直後の支援だった。

 仲田順英執行をはじめ僧侶らがトラックに乗り、名水「醍醐水」や食料品、トイレットペーパーなどの日用品を積めるだけ積んで、被災地へ向かった。もちろん喜ばれたが、仲田執行には「今すぐできる支援は、僧侶にはないのではないか」と思えたという。

 現地でよく「醍醐寺は桜で有名ですね」と言葉を掛けられたこともあり、震災翌年の12年3月、縁のできた田老地区に桜を植えに行った。津波の爪痕が残る町を練行して回ると、あちこちで拝んでほしいと頼まれた。「これこそが僧侶のやるべきことだ」。桜の植樹を続けたいと願ったという。

 プロジェクトは、今や醍醐寺が最優先で取り組む事業の一つとなっており、熊本地震の被災地などにも派生している。

 「子どもたちには命の循環の勉強と心の教育になっている。命がつながり、いい縁を結ぶことがいかに大切かを、これからも伝えていきたい」。仲田執行は力を込めた。

(文化時報2020年11月4日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

一人親支援にお寺活用 孤立防ぐ「街HUBプロジェクト」

 困窮する一人親家庭の支援に、寺社や教会を活用する試みが進んでいる。一人親家庭の自立支援に取り組む一般社団法人ハートフルファミリー(藤澤哲也代表理事、東京都新宿区)が手掛ける「街HUBプロジェクト」は、宗教施設や店舗、支援団体が連携し、食料支援や精神面のサポートを提供。地域ぐるみの自立支援に、宗教者後押しを期待している。(安岡遥)

「シングルファミリーパントリー」で参加者と交流する日野さん(左)。パンや米、バナナなどを21 家族に配布した

 理事の一人、西田真弓さんは、大学生の息子を持つシングルマザー。一人親家庭の平均年収は一般家庭の約3分の1と言われ、「悩みの大部分は経済的なことだった」と、自身の子育てを振り返る。

 「子育て中のシングルマザー・ファーザーの話を聞いても、経済的な大変さはほとんど変わっていない。食べ物や生活物資の支援だけでなく、心の応援を届け、明日を生きる活力につなげてもらえれば」。そうした思いで、2019年、街HUBプロジェクトを立ち上げた。

 宗教施設や支援団体、店舗などが「マンスリーサポーター」となり、月々一定額を寄付。その上で、ハートフルファミリーが発行する冊子を置いたり、イベントや食料支援などの活動に参加したりする。必要に応じて弁護士やファイナンシャルプランナーなどの専門家へつなぐことも想定し、長期にわたる安定した自立支援を目指す。

 地域の中で孤立しやすい一人親家庭のサポートに欠かせないのは、「支援者の顔が見えること」と西田さん。支援を必要とする人が直接訪れ、周囲とのつながりを築く拠点が必要だという。「心の拠り所として日常的に人が集まる寺社は、支援のつながりを築く上で非常に重要」と期待を込める。

 例えば、広い境内を生かしたイベントの開催。子どもを見守る地域社会づくりを目指してハートフルファミリーが主催する「ぼっちぼっちフェス」には、これまでに全国の約20カ寺が会場を提供した。流通に乗せられない食材を受け入れ、困窮家庭に無料で提供する「フードパントリー」に取り組む寺院もある。

 西田さんは「継続を想定しない単発の活動では、本質的な自立支援につながりにくい。施設の規模や経済力に応じ、できることを無理なく続けてほしい」と呼び掛けている。

子育て支え、食料届ける 真宗大谷派西照寺

 真宗大谷派西照寺(日野賢之住職、石川県小松市)の衆徒、日野史さんは、街HUBプロジェクトのサポーターの一人。自身もシングルマザーで、僧侶として活動する傍ら、趣味の音楽を生かしたイベント運営や子ども食堂にも取り組む。

 ハートフルファミリーが携わる音楽イベントを地元の小松市へ招いたことがきっかけで西田さんと交流が生まれ、1年以上にわたって支援活動に関わっている。

 子ども食堂に集まる食材などを利用したフードパントリーが好評で、一人親を含む約50世帯の子育て家庭が訪れたこともある。現在は地元商店街と協力し、一人親家庭への食料支援を兼ねたイベントを企画しているという。

「後ろ指をさされる」

 だが、課題もある。地方では依然、一人親家庭に対する偏見が根強く、「知り合いに後ろ指をさされるのではないか」「他人から施しを受けていると思われたくない」との考えから、支援を受けることをためらう人が少なくない。

 日野さんは「一人親家庭のほとんどが支援を必要としており、食料配布などの具体的な支援を呼び掛ければ、頼ってくれる人も多い」と分析。一方、「シングルマザー・ファーザーであることを公表したくない人にも配慮し、『一人親家庭の支援』を前面に押し出すことは避ける必要がある」と話す。

 支援活動に積極的な寺院が少ないことも、課題の一つだという。「私の活動を知り、『えらいね』『立派だね』と声を掛けてくれる人は多い。だが、『一緒にやらないか』と誘えば『忙しいから』と二の足を踏む人がほとんど」と、もどかしさをにじませる。

 北陸は真宗王国と呼ばれ、西照寺の近隣にも多くの浄土真宗寺院がある。「活動を理解してもらうことには苦労もあるが、子どもたちの笑顔を見ると『お寺でよかった』と感じる。困っている人のため、施設やマンパワーを活用してくれるお寺が増えれば」と、日野さんは語った。

(文化時報2020年10月24日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

「迎合せず、関われ」武道家兼僧侶が語る仏教の〝型〟

 岐阜県高山市の浄土宗大雄寺(だいおうじ)住職、田中玄恵氏(53)は、僧侶でありながら武道家でもある。拳法「太道(たいどう)」の師範として、道場長を務めるほどの腕前だ。同じ動きを繰り返して体に染み込ませ、僧侶としても修行を重ねる。目指すのは、聖なる空気を身にまとうこと。「社会の人々は、不安定な世の中においても、和尚と寺だけは違う雰囲気であってほしいと願っている。聖性がなければならない」と語る。(大橋学修)

田中玄恵(たなか・げんえ) 1967年2月生まれ。97年から浄土宗大雄寺住職。拳法「太道」師範。1997年から同寺住職。大本山くろ谷金戒光明寺の布教師会副会長として、後進の指導にも当たる。趣味はギターの弾き語りで、長渕剛の「乾杯」が得意曲。家族は4人と犬1匹。

厳しい修行を求めて

 生まれ育った大雄寺は、市街地にほど近い東山寺院群の一角にある。同級生には寺院子弟が多く、周囲からは僧侶になることが当然と見なされ、自身も疑いを持たなかった。ただ、武道に憧れて、柔道や空手、少林寺拳法などさまざまな道場に通い詰める青少年時代を送った。

 浄土宗の僧侶になるための大学には、大正大学(東京都豊島区)と佛教大学(京都市北区)がある。進学先に選んだのは、佛教大学。武道の聖地とされる武徳殿=用語解説=が、京都にあったからだ。友人や先輩から聞きかじった禅宗の僧堂のようなイメージを膨らませ、相応の覚悟を決めて入学した。

 進学した1980年代、1年生は大本山くろ谷金戒光明寺の学寮で暮らさなければならなかった。ところが自分が求めていたほどの厳しさはなく、ならば武道で自らを鍛えようと、京都市内の道場を渡り歩いた。

 カルチャースクールのような道場は、自分には必要ない。武道の精神を継承し続ける所に行きたい―。そうして巡り合ったのが、少林寺拳法の流れをくむ拳法「太道」。自分が求めた厳格な世界があった。大学卒業後には道場の内弟子となって拳法三昧の生活を送り、師範の資格も得た。

優秀な人の、響かない話

 内弟子となって2年が経った頃、拳法の師から「地元に帰って、武道をしながら仏法を広めることも仕事だぞ」と言われた。自身もそう考えていたが、武道家としてはともかく、僧侶として納得できるものを得ていないことが気になった。

 浄土宗教師の研鑽の場として開設される修練道場に同級生が入っていたことを思い出し、自らも入行を決めた。教学や法式の勉強ならどこでもできるが、修行は違う。「武道と同様、同じことを繰り返すことで、雰囲気を身にまとえる。〝和尚臭さ〟を身につけなければ」

 修練道場では、各界で活躍する講師が、自らの信仰をもって熱心に語っていた。「教学とは、信仰だ」。たとえ優秀な研究者であっても、信仰を持たない人の話は心に響かないことにも気付いた。

突き詰めれば世捨て人

 満行後は、経験を生かしてほしいと頼まれて、宗務庁教学局職員や修練道場の指導員として勤務。ようやく大雄寺に戻れたのは、30歳の時だった。

 帰郷してすぐ、拳法「太道」の道場を開いた。武道家ではなく、僧侶として必要だと感じたためだった。「僧侶は突き詰めれば世捨て人。世間にとって必要ない存在だからこそ、世間に関わるための手段がいる」

 社会との関わり合いは、武道を通じてだけではない。地域の子どもたちに寺を開放して勉強を手伝い、新型コロナウイルスの感染拡大で休校が続いた際には、居場所として機能した。年に数回、ジャズコンサートも開いている。寺に来たことがない人が気軽に入れるようにするためだという。

 「『いつでもお参りください』と寺が言っても、現実は入れる状況にない。こちらが歓迎する状況を作らなければならない」。僧侶も寺院も、社会が何を求めているかを考えるべきだと言う。

 一方で「社会や風潮に迎合することなく、本来はこうあるべきだという教えの視点が必要だ」とも。雰囲気や聖性をまとい、社会に受け入れられる何かをにじませるのが、僧侶だと考えている。
        ◇
【用語解説】武徳殿(ぶとくでん)
 平安神宮の造営に際して1899(明治32)年に建設された大日本武徳会の演武場。武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、「東の講道館、西の武徳殿」と評された。現在は京都市武道センターの施設として、さまざまな武道が行われている。

(文化時報2020年9月9日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

空き家活用「人の駅」 越前海岸に登場

 過疎化に悩む福井市西部の越前海岸エリアに活気を取り戻そうと、浄土真宗本願寺派善性寺(福井県越前町)の山田靖也住職らが参加する「福井市越前海岸盛り上げ隊」が、空き家を活用した「人の駅」の設置に着手した。イベントや宿泊を通じ、地域住民と訪問者が交流する取り組み。開設に向けたクラウドファンディングでは、約300万円の支援金が寄せられた。

改築される古民家「はりいしゃ」は、鍼灸院として使われていた

 「人の駅」の中心となるのは、「はりいしゃ」の屋号で呼ばれる築50年の空き家。クラウドファンディングで寄せられた資金を元手に改修工事を行い、ギャラリーやイベントスペース、宿泊所を兼ねた交流拠点とする。

 「盛り上げ隊」には、ガラス作家や写真家など多彩なメンバーが集う。山田住職は「クラウドファンディングを通じて、メンバー同士の結束が強まり、コラボレーションにも期待できるようになった。楽しんでもらえるよう工夫したい」と意気込みを語った。

移住者で僧侶だからこそ

 「盛り上げ隊」が活動する福井市越前海岸エリアは、鷹巣、棗(なつめ)、国見、越廼(こしの)、殿下(でんが)の5地域から成る。

 名古屋市出身の山田住職は、2014年に越廼地域へ移り住み、精進料理を提供する古民家レストラン「いただき繕(ぜん)福井越廼」を営んだ。地域の寺で聞いた法話をきっかけに僧侶を志し、16年に得度。空き寺となっていた善性寺を継いだ。「地域の魅力を発信することが、地域で生きる僧侶の役目」と語る。

地域への思いを語る山田靖也住職

 「盛り上げ隊」の発足から間もない2014年頃、隊長を務める長谷川渡さんに加入を勧められた。越前海岸エリアは漁業で成り立つ地域。自身は菜食主義者であり、「できることがあるのか」と戸惑ったが、「地元の人が見過ごしがちな魅力を広めたい」との思いで参加した。

 移住者で僧侶だからこそ、持てる視点があった。「耕作放棄地にはミカンやウメが自生し、空き家は少しの手入れで住める。十分に活用されていない宝物がたくさんある」。地域活性化の鍵は、地域に眠っていると考えた。

 状態の良い空き家や古民家に移住希望者を案内し、地元住民の話を聞く「空き家ツアー」、パンや古道具を販売する「しかうら古民家マーケット」などを、2年前から独自に開催。空き家見学と法話を合わせた「人生探検ツアー」は、「盛り上げ隊」の主な活動の一つにもなっている。

 善性寺周辺の民家は半数近くが無人。「何とか活用できないか」と相談されることも多く、地域を離れる門徒から「使ってほしい」と託されたことが、「空き家ツアー」のきっかけになったという。

 「地域の人に親しく相談していただけるのも、お坊さんという立場だからこそ。独り善がりの喜びではなく、『私もうれしい、みんなもうれしい』を目指したい」。山田住職は力を込めた。(安岡遥)

(文化時報2020年8月26日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

總持寺祖院が完全復興 能登半島地震から14年

 曹洞宗の大本山總持寺祖院(石川県輪島市)は6日、2007(平成19)年の能登半島地震からの復興を祝う落成慶讃法要を営んだ。地震では大部分の建物が被災。全国の寺院から支援を受け、14年かけて修復された。地域のシンボルでもある祖院の復興は、輪島市民にとっての悲願とあって、同日には市主催の能登半島地震・完全復興式典も行われた。

 總持寺祖院は1321(元亨元)年に瑩山紹瑾禅師によって開創。大本山總持寺は1898(明治31)年4月の火災を機に、現在地の横浜市鶴見区に移転したが、焼失を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵に加えて七堂伽藍が再建され、地域の信仰を集めていた。

 能登半島地震は2007年3月25日に発生。輪島市や七尾市などで震度6強を観測し、死者1人、負傷者359人に上った。總持寺祖院では登録文化財の17棟をはじめ大部分の建物が被害を受け、坐禅堂は倒壊の危機にひんした。

 震災から3カ月後の6月に復興委員会を立ち上げ、修復工事を開始。推定200㌧の山門は、全体を持ち上げて移動させ、耐震のための地盤改良も行った。

 落成慶讃法要は、江川辰三・總持寺貫首の導師で営まれ、大般若経の転読などを行い、14年にわたる復興への慶賀を表した。江川貫首は垂示で、「伽藍はすっかり整った。全国の宗門寺院の方々や復興を支援してくださった檀信徒などのおかげだ」と謝意を表し、「本山と祖院は一体。信仰のよりどころとして、護持発展のために今後もよろしく願いたい」と述べた。

 乙川暎元・總持寺監院は「多くの方々の祖院における思いが結実した結果と胸に刻みたい」と話し、小林昌道・大本山永平寺監院は「開創700年の年に復興落慶式が行われることは、慶賀に堪えない」と語った。

輪島市民の象徴、誇りの復興

 能登半島地震では、死者・負傷者だけでなく、住宅やそれ以外の建物約2千棟が全半壊した。伽藍が甚大な被害を受けた總持寺祖院の復興は、輪島市民にとっては震災の完全復興を象徴する出来事となった。

 梶文秋輪島市長は落成慶讃法要の祝辞で、「震度6強の地震が襲い、門前町を中心に家屋倒壊や土砂崩れなどの被害を受けた。總持寺祖院では、境内の風景が一変した」と振り返り、「祖院は地域住民の日常生活に溶け込んでおり、地域の誇りでもある。祖院の復興なくして震災からの復興なしと、この日を待ち望んでいた」と語った。

 落成慶讃法要の前に山門前で揮毫奉納を行った書家の阿部豊寿さんは、黒色のパネルに「禅」と金字でしたためた後、山門前に広げた畳約8畳分に相当する紙に力強く「完全復興」と書き上げた。「この町は700年間、總持寺祖院と共に歩んできた。明るく、災害に強い町として、これからも共に歩んでいく」とあいさつした。

(文化時報2021年4月12日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム