文化時報プレミアム」カテゴリーアーカイブ

「粉河の荒れ寺」再興 廃墟から7年越しの悲願

 約30年間にわたり無住寺院として荒れ果てていた和歌山県紀の川市の真言宗山階派長壽寺(佐々木玄峯住職)が今年4月、再興の節目となる花まつり法要を営んだ。真言宗智山派の大本山髙尾山薬王院から分霊された飯縄大権現の御前立ご本尊を開眼した。本坊の屋根修理などが残るものの、関係者や地元住民らが集まって完全復興を誓った。(春尾悦子)

開眼された長壽寺の御前立ご本尊


安ホテルに寝泊まり

 長壽寺は、JR和歌山線粉河駅から高台へ入ったところにある寺院。前住職の尼僧が約30年前に逝去して以来無住となり、荒廃を極めていた。これを知った佐々木住職が2013年、再興を発願。自ら木を切り、仲間の応援を得て、手作業で修理を始めた。

 佐々木住職の自坊は東京都八王子市の勝楽寺。八王子から通って修理を続けた。屋根が破れ、床は朽ちて、靴を履いたまま歩くしかなかった伽藍に寝泊まりする所などなく、安いホテルに泊まった。

 本堂には荘厳な阿弥陀如来像があったが、いつの時代のものか判明しなかった。由緒来歴などを記したものが、見当たらなかったためだという。隣接した空き家も廃墟と化していたが、山階派の所有物件と分かり、取り壊されていた。

髙尾山から分霊、徒歩練行でお迎え

 再興の途上、復興の象徴として、また参拝者の諸願成就のためにと、新しいご本尊に髙尾山薬王院の飯縄大権現のご分霊を勧請したいと願い出た。「八王子から粉河まで、徒歩練行でお迎えしたい」と、旧知の中原秀英髙尾山薬王院修験部長に相談したところ、大山隆玄貫首の快諾を得て、実現の運びとなった。

 木村龍仏師が、多摩美術大学の講師らの協力を得ながら、向背を入れて高さ2・2㍍になる御前立のご本尊を制作。15年、大山貫首により入魂された。

 同年10月から、佐々木住職をはじめ山階派の僧侶に髙尾山の僧侶らが加わり、富士の裾野を巡って和歌山に至る約600㌔もの徒歩練行が約1カ月にわたって行われた。途中、京都に滞在。山階派の大本山勧修寺では、筑波常遍門跡の導師で法要を営み、さらに奈良・東大寺でも法要を行って、長壽寺へ到着した。

復興が進む長壽寺


「これから、ぼつぼつです」

 その後も佐々木住職が寺や本坊の整備をこつこつと続けるうち、地元の人たちも次第に寺を訪れるようになった。今では地元の信者が集まり、年に2度の法要を行うまでになった。

 今年4月1日の花まつり法要は激しい風雨に見舞われたが、助法に駆け付けた出仕の各宗僧侶や随喜者らは、佐々木住職の妻、景子さんと友人らによる心尽くしのお斎でもてなされた。法要後は、夜桜を揺らす雨の中、尺八奏者の泉川獅道氏が演奏を奉納した。

 佐々木住職は「飯縄大権現さまにまつわる行事は、徒歩練行をはじめ、全て雨だった」と振り返った。

 本坊の屋根は、いまだに雨よけのシートをかぶせたまま。佐々木住職は「仏さまのおられるところだけは、まず何としても修理しなければと思った。庫裏・本坊までは、なかなか手が回らなくて…。これから、ぼつぼつです」と話す。

 分霊に尽力した中原修験部長は「これからも、どんどんお護摩を修行してください」と、改めて髙尾山からの応援メッセージを送った。

(文化時報2020年4月15日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

盗難仏を展示 “奥の手”使う博物館の困った事情

 和歌山県立博物館(伊東史朗館長)は、2010~11年に盗難に遭って以来所有者が分からない「阿弥陀如来坐像」を今年4月にスポット展示した。所有者の手掛かりを募るとともに、文化財盗難の現状を知ってもらい、盗難対策の強化につなげたいとしている。

 展示された仏像は、高さ55・8㌢の一木造り。盗難事件後、13年から同館が保管している所有者不明の文化財43点の中では、最古かつ最大の仏像という。

 像自体は平安時代中期の作とみられるが、光背と台座は1787(天明7)年に造られたことが分かっている。台座の銘文に「野上下津野」の地名が見られ、現在の和歌山県海南市下津野近辺に伝わった可能性がある。

展示された盗難仏の阿弥陀如来坐像と大河内智之主任学芸員


 同博物館の大河内智之主任学芸員(日本美術史)は「美術品や文化財としての価値はもとより、地域の信仰の歴史を背負ってきた点からも貴重な仏さま。一日も早く元の所有者にお返ししたい」と話している。

地域の信仰どう守る

 仏像の盗難は、地元住民にも暗い影を落とす。

 「盗難事件が起きているとは聞いていたが、『まさか自分たちのお堂が』という思いだった」。和歌山県高野町花坂地区の前区長、上田静可さんはそう振り返る。

 上田さんが世話役を務める花坂観音堂では、江戸時代の作とみられる阿弥陀如来立像が2011年1月に盗まれたことが分かり、現在も行方が分かっていない。

 当時、お堂の防犯対策は南京錠による施錠のみ。賽銭(さいせん)の盗難もたびたび発生していた。付近の民家からは死角に当たり、管理を担う住民も高齢化していた。

 和歌山県内では2010年から翌年春にかけ、山間部の無住寺社やお堂を中心に、仏像172体と仏具・神具などが盗まれる事件が発生。これ以降も無住寺社を狙った盗難事件が相次ぎ、17~18年には和歌山市など3市の10カ寺で仏像60体以上が、19年にも田辺市の2カ寺で本尊が盗まれた。オークションサイトで転売され、いまだに行方が分からないものが大半を占めている。

 和歌山県立博物館の大河内智之主任学芸員は、相次ぐ文化財盗難の背景について「過疎化や高齢化に伴う無住寺社の増加、手軽に使えるインターネットオークションの普及が重なり合い、犯罪を生みやすい環境になっている」と分析する。

 事件当時、被害者の多くが「仏像を盗む罰当たりな人がいるとは思わず、防犯を考えたこともなかった」と口にした。住民側には信仰の対象であっても、盗む側には商品であり、心理的な抑止力は働かない。

 大河内主任学芸員は「管理の担い手が減る中で信仰の場を犯罪から守るには、盗む側と盗まれる側の意識のギャップを理解し、物理的な対策を考える必要がある」と話す。

仏像の盗難被害に遭った花坂観音堂

3Dプリンターで「お身代わり」

 そこで和歌山県立博物館は、本物の像を博物館へ移し、3Dプリンターで制作した「お身代わり仏像」を安置する取り組みを13年から行っている。視覚障害者向けの教材として使っていたレプリカを活用できないかとの発想で、地元の高校生・大学生と協力して制作を始めた。

 予算は平均10万~20万円で、大きなものだと50万円ほど。専門業者に依頼した場合に比べ、10分の1程度のコストで制作できるという。昨年秋に京都市で開催された国際博物館会議(ICOM)に出品され、レプリカの新たな活用法として世界からも注目を集めている。

 奉納した「お身代わり」は、今年2月末時点で28体にのぼる。「大切な仏さまを偽物で代用するのか」との批判がある一方、地域住民からは「盗難を心配せず安心して眠れる」「学生さんとのふれあいがうれしい」など感謝の声が多いという。

 同館は、無住寺社への防犯カメラ設置などを呼び掛けているが、防犯設備の管理自体が難しい地域も少なくない。大河内主任学芸員は「お身代わり仏像は、そうした地域を救う究極の一手。いずれは本物の仏像を地域に戻せればと願っている」と話す。

 その上で「文化財盗難は、地域の歴史を壊す卑劣な行為だ」と強調。2010年の事件を教訓に、県警と県教委が連携して対策を進めており、「他県でも被害が見えていないだけで、盗難が起きている可能性もある」と指摘した。(安岡遥)

(文化時報2020年4月11日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

全共闘から禅へ「情熱こそが原動力だった」

 今春公開された映画『三島由紀夫vs 東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督)を見て、「映像が始まった瞬間から、心臓が高鳴った。当時の私たちは熱く、情熱こそが原動力だった」と語るのは、曹洞宗の五十嵐靖雄道心寺住職(広島県呉市)。駒澤大学全共闘として学生運動に身を投じた後、大学を中退し、「生きるとは何か」を思索。滝沢克己(キリスト教神学者)や久松真一(哲学者)の著作を通じ、禅の世界に道を求めた。「学生運動に没頭したからこそ、仏教に目覚めた」と語る。

五十嵐靖雄(いがらし・せいゆう)1947年、新潟県生まれ。駒澤大学中退。曹洞宗大本山總持寺で修行した後、京都・安泰寺で内山興正老師に師事した。83年に広島県呉市の道心寺へ入寺。2006年から宗議会議員を務め、現在4期目。

 新潟県阿賀野市にある曹洞宗瑠璃光院の次男として生まれ、1966(昭和41)年に駒澤大学仏教学部に進学した。当時は僧侶になる気持ちは薄かったという。

 ノンポリだった青年が学生運動に関心を持ったのは、67年の「10・8羽田闘争」。ベトナム戦争反対を訴える同じ世代の学生たちが機動隊と渡り合う姿に「どうしてここまで社会に憤っているのか」と疑問が湧いた。

 初めてデモに参加したのは、翌68年の「新宿騒乱」だった。10月21日の国際反戦デーを迎えるにあたり、反戦団体はベトナム戦争反対の集会を各地で開いた。武装した約2千人が新宿駅で機動隊と衝突。政府は騒擾罪(そうじょうざい、現在の騒乱罪)の適用を決め、743人が逮捕された。

 五十嵐住職はその日、国会議事堂やアメリカ大使館へのデモに参加していた。
 
 「東京都内は至る所で火の手が上がり、学生を応援する群衆の波がすごかった。交通はストップし、唯一動いていた地下鉄丸ノ内線に飛び乗ったが、駒大には帰れず、早稲田大学の最寄り駅で降り、大隈講堂で一晩を過ごした」

 デモに参加した動機は、戦争反対の思いからだったという。

俺が俺であるとは

 1969(昭和44)年、駒大も機動隊を学内に入れ、大学側が校舎を逆封鎖。正門で学生証を提示しなければ学内に入れなくなった。

 ある日、五十嵐住職が学生証を持たずに正門から入ろうとすると「五十嵐君、学生証がなければ入れないよ」と教員に呼び止められた。「あなたは僕を五十嵐君と呼び、駒大の学生だとわかっている。にもかかわらず入れないとはどういうことか。今いる私そのものが、本当の私ではないのか」と教員とやり合い、正門のフェンスに登ってアジ演説を始めた。

 その場に集まった多くの学生の押す力でフェンスが倒れると、私服警官に取り囲まれ、東京都公安条例違反容疑で逮捕された。玉川警察署での2週間の勾留が解かれて大学に戻ると、授業料未納で退学処分となっていた。

 「俺が俺であるとはどういうことか」。退学後も探究し、手当たり次第に本をあさった。中でも高橋和巳、小田実、柴田翔らからは多くの影響を受けた。

 「高橋和巳からは『普段の生活の中で、一人一人、自分の主体に対して真摯に問いを発しているのか』という課題を投げかけられた。すると困ったもので、だんだん闘争する根拠がなくなってきた。そしてセクトの人間と話をすればするほど、私自身が相反する立場となった。『何のために闘うのか』を自己に問い直さなければならないと考えるようになってきた」
 
 さらに思索は深まっていった。「人は何によって人たりうるのか」と。

神も因縁所生の身

 そのような中、ある言葉に巡り合う。哲学者・キリスト教神学者で九州大学教授を務めた滝沢克己の「人は神ありて人なんだ」というフレーズだった。

 「滝沢先生は全共闘の学生に対し、一宗教者として理論的に対話してくれた人。滝沢先生の本に巡り合って助かった。ここで宗教が出てくるのかと感嘆した」

 その後、滝沢と京都大学教授を務めた哲学者、久松真一の間で、無神論に関する論争があった。西田幾多郎の哲学と、鈴木大拙の禅学に影響を受けた久松にも、五十嵐住職は関心を持った。

 「久松先生の本には『絶対者はどこに立ち現れるのか。禅者の立場からすれば、神といえども因縁所生の身だ』と書いてあった。この言葉に衝撃を受け、やはり信仰の世界に入らなければ分からないのかなと考えた。頭で考えるよりも、座らなければ答えは出てこないと思った」
 
 70年春、五十嵐住職は修行のために、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺へと向かった。

言葉を全て手放す

 69年1月18、19日に全共闘運動の象徴ともいえる東大安田講堂事件があった。駒大全共闘の一員だった五十嵐住職も、たびたび本郷に動員されていたが、その時はけがをしていて参加できず、テレビを見ながら歯がゆい思いをしていたという。

 映画『三島由紀夫vs東大全共闘』は、同年5月13日に東大駒場キャンパスで行われた討論会の様子と、当時の関係者や文化人への取材を基に構成している。

 この討論会の様子は、数日後には周辺の大学の学生の耳にも届いた。討論で三島は、学生たちとの間にあるイデオロギーの違いを超え、「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます」と語っている。

 「その情熱を原動力として私は自分のありようを探究し、滝沢先生と久松先生の言葉に出会い、僧堂生活に入った、坐禅は一切のもの、言葉も全て手放してしまうこと。如実に立っていることから始め、物事を照り返すということだった」

運動は敗北だったのか

 映画の終盤、全共闘運動に身を投じた人たちに、「全共闘運動は敗北だったのか」と尋ねる場面がある。ある人は問いに沈黙し、ある人は「君たちの国では敗北という認識かもしれないが、僕の国では…」と持論を展開した。五十嵐住職はどう捉えているのか。

 「勝った、負けたという話ではなく、いよいよ自分の立つ位置が鮮明になったということ。どのように一歩を踏み出すのかが大事になった。だから私はその一歩を手探りで求め、その先に坐禅があった」

 討論では、全共闘の論客で、今も劇団を主宰する芥正彦氏が三島に対し、「あなたは日本人であるという限界を超えることはできなくなっている」と言い放つ。このやりとりは空間や時間といった観念論にも飛躍し、印象的なシーンでもある。そして全共闘の学生の情熱にだけは共感を示した三島は「言霊をここに残して去っていく」と会場を後にする。

 五十嵐住職は「当時の全共闘運動を実際に肌で感じていない人にとっては、このシーンは禅問答のように感じるかもしれないが」と補足しつつ、次のように説明する。

 「表現の仕方はそれぞれで、芥氏は演劇を使った体での表現だったろうし、三島は言葉という言霊を使った文学表現だった。ただ、全てのことから自立するということは、国籍はもちろん、自立という言葉さえなく、言葉の意味すらも問い直さなくてはならない。三島はそのことを知っていたからこそ、自分にとっての言葉は言霊だと確信していた」

 禅の世界で、言葉のないところを言葉で指し示さなければならない場合、それは「如是」となる。

 「如是とは、そのまま、ありのままという意味。今の自分の立場で言えば、坐禅に照り返されている自己。そこから初めて言葉が発せられる。それを三島は言霊と言った。だからこそ、三島の文学には力がある。そしてわれわれ僧侶が読むお経も、お釈迦さまの言霊であり、いいかげんに読んでいてはいけないということだ」

切腹に匹敵する坐禅

 五十嵐住職が大本山總持寺に入った年の秋、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島は割腹自殺をした。夕方、風呂に入っていると、修行仲間から「三島が切腹したぞ」と伝えられ、言葉が出なかったという。

 「修行時代もずっと三島が切腹した意味を考えていたが、その答えは『生き切ること』だと考えていた。私は幸いにして、坐禅の道に進み、これまでやってくることができた。人生において選び取ることは大事で、そこに人それぞれの思いが込められている」

 「おそらく三島は三島で、憂国の志士として割腹したのだろう。それは彼の美学。映画を観て、改めて三島の真剣に生きる姿に触れ、私自身がもっと毎日を凛(りん)として生きなければと思った。三島の切腹に匹敵するほどの坐禅を、今後も行い続けなければと思わされた」

水平に立ち尽くす

 学生運動の中にはさまざまなセクトがあったが、セクトに属さない「ノンセクト・ラジカル」の全共闘は比較的、紳士的な人が多かったと五十嵐住職は振り返る。

 「機動隊とゲバ棒で戦う場面だけをクローズアップするから、暴力的な集団だという印象が人々の中にはある。しかし、討論会を見ていてもわかるが、普通の人間が『これはおかしい』と思って立ち上がったのが、全共闘運動だった」

 では、そもそも全共闘運動とは何だったのか。

 「当時の若者は、大学のありようや人間のありようを問い直すとき、文明・文化は果たして学生にこれほどまで秩序を要請するものなのだろうか、あまりにも権威主義、学歴偏重主義になっているのではないかと疑問を抱いていた。その疑問に、ほとんどの学者は答えられなかった。それならば大学は解体してしまえばいいという運動だった」

 教員が問いに答えられないのは、大学が生きた学問をしていないからだと五十嵐住職は指摘する。

 「本来なら、曹洞宗の宗門関係学校である駒澤大学は、禅という立場で答えを出せる大学だったはずだ。言葉以前の水平に立ち尽くし、そこから物事を見ていかなければならないというのが禅の立場。当時の全共闘運動も実はそのことを目指していた。今から思えば三島由紀夫も滝沢先生も、まっすぐに全共闘運動に向き合ってくれた。とてもありがたかった」
           
(文化時報2020年4月15日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

在家から僧侶になった瞬間があった

 知らず知らずのうちに、僧侶になるレールが敷かれていた。それでも、宗教には噓があると思っていた――。浄土宗の名刹、轉法輪寺(てんぽうりんじ、京都市右京区)の兼岩和広住職(49)は、そう振り返る。師との出会いによって、浄土宗の教えが生き方の指針になったという兼岩住職。在家から僧侶になった瞬間は、はっきりとあった。(大橋学修)

轉法輪寺の兼岩和広住職


一休さんに導かれ

 父方の伯母は浄土宗成蓮院(名古屋市千種区)の尼僧で、かつて住職を務めていた。幼い頃は成蓮院を訪れるたび、アニメ「一休さん」のまね事をして遊んだ。手先が器用な伯母から、子ども用の僧衣を作ってもらった。いつしか盆の棚経に同行するようにもなったが、中学1年生の頃には嫌になっていた。

 高校受験に際して、宗門関係学校の東山高校(京都市左京区)に行くなら援助してやると伯母が言った。滋賀県で生まれ育った自分には、京都市内の学校に通うのも魅力的だと思えた。寺院や僧侶をそれほど意識することなく、高校生活を過ごした。

 大学も、宗門校の佛教大学に進学するよう言われた。将来どのような職業に就くか考えておらず、「僧侶の資格を取得しておいた方が無難」という軽い気持ちで入学した。大学生活でも、僧侶として生きる意義に目覚めることはなかった。

感動の涙が出ない

 転機となったのは、浄土宗の教師資格を取得するための最終関門、伝宗伝戒(加行)道場の成満式だった。

 自分以外の入行者は、師から弟子に仏法を相続する「血脈相承」を終えたことに対し、感動のあまり涙を流していた。僧侶になることに反発を抱いていた仲間でさえ、同様だった。

 顧みると、自分自身にも喜びはあったが、それは修行からようやく解放されるという思いだった。周囲との埋めがたいギャップを感じた。「僧侶としての自信はない。では、どうすれば良いのか」

 教師資格取得者が1年間こもって研鑽する教師修練道場への入行を決めた。道場には、休憩時間をつぶすには十分すぎる書籍があった。手塚治虫の漫画『ブッダ』から読み始め、次に入門書、気付けば専門書籍も手に取るようになった。

望遠鏡で極楽見る

 道場の座学で、印象的な出来事があった。佛教大学教授で轉法輪寺前住職の故深貝慈孝師との出会いだった。

 深貝師との対話で、地球周回軌道にあるハッブル宇宙望遠鏡からは、数億光年先の銀河を観測できるという話題になった。「極楽浄土があるとされる十万億仏土先の天体が観察できるようになったら、どうしましょうか」。そんな軽口をたたいた。すると当たり前のように、深貝師は「見えるようになるのが待ち遠しい」と応じた。心を動かされた。

 「考えてみれば、法然上人の教えは、信じれば全てつじつまが合う。浄土宗、ちゃんとしているじゃないか」

 道場成満後は、佛教大学大学院への進学を誘われ、深貝師や故岸一英教授、現浄土宗総合研究所長の藤本淨彦氏の下で、廬山寺蔵『選擇集』の翻刻を手掛けた。その研究は、法然上人が残した『選擇本願念佛集』の編纂過程に新たな見解を見いだす論文を発表するまでになった。

 深貝師の後を継いで轉法輪寺に入った兼岩住職は言う。「年齢を重ねるにつれ、いろいろとつらいことがあった。どんなときも、阿弥陀さまが苦しさのはけ口となってくれた」

(文化時報2020年4月1日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

福島が生き方変えた 原発事故の避難者支援は今

 東京電力福島第1原発事故の避難者を支え続けている僧侶が、600㌔余離れた兵庫県市川町にいる。真宗大谷派光円寺の衆徒・坊守、後藤由美子さん(62)。『歎異抄』の教えや子どもたちの自主性を重んじる教育を原点に、福島からの保養や移住を受け入れてきた。支援している移住者の本に寄稿するなど、積極的に活動している。(主筆 小野木康雄)

原発事故の避難者支援を続ける真宗大谷派の後藤由美子さん


母を守れない社会

 「放射性物質が大量に私たちの世界へと降り注いだ衝撃は、本当に心砕かれるものでした」

 移住者の渥美藍さんと大関美紀さんが出版した『ありのままの自分で―東日本大震災・福島原発事故を体験した母娘の選択』(せせらぎ出版)に、後藤さんはこんな一文を寄せた。

 後藤さんは震災前、地元に近い兵庫県姫路市で、映画『六ヶ所村ラプソディー』の自主上映会を開こうとする市民活動を手伝っていた。青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場を巡るドキュメンタリー。その実現を待たずに「3・11」を迎えた。

 ショックだった。知人やインターネットを介し、子育て中の母親たちの情報を集めた。放射能からわが子を守る困難と苦悩は、1986年のチェルノブイリ原発事故で食べ物に気を配った経験を通じ、知っている。当事者のつらさが、身に迫った。

 「母を守れない社会に将来はない」。まずは汚染の少ない土地で子どもを預かる保養に取り組んだ。2011年夏、宗派の「夏休み子どもの集い」と山陽教区の有志が行う事業に協力して、福島の小学4~6年生10人を2泊3日で自坊に預かった。

子ども主体の保養

 保養を手伝ってくれたのが、市川町にあるデモクラティックスクール「まっくろくろすけ」の卒業生たち。デモクラティックスクールは、時間割やテストがなく、子どもたちが主体的に運営する米国発祥の学校だ。後藤さんは「まっくろくろすけ」の立ち上げに携わり、2人の子どもを通わせた経験があった。

 保養のような催しは、主催者が善意で綿密な企画を作りがちだ。当時10代だった卒業生たちは違った。自分たちが学んできたのと同じやり方で、福島の子どもたちの主体性を大切にし、一緒にプログラムを作り上げた。

 「いのちを大事にし、個々が尊重される教育が背景にあった。だからこそ、福島の子どもたちに楽しんでもらえた」。後藤さんは振り返る。

 宗派と山陽教区はそれ以降も毎年、保養を実施。光円寺も協力を続けており、昨夏には男児3人を受け入れた。

光円寺で行われた保養。子どもたちが主体的にプログラムを作った=兵庫県市川町(後藤由美子さん提供)


歎異抄と出合って

 在家出身の後藤さんは20代の頃、「世界を変える言葉」に出合った。「地獄は一定(いちじょう)すみかぞし」。『歎異抄』の一節だ。

 地獄が定まったすみかであり、自分は地獄から離れられないという親鸞聖人から、生きる力をもらった。ヒエラルキーを駆け上っていく競争社会は、支配する者とされる者という構図を生み出す。底辺に立つこと。上るのではなく、下りる意識で生きること―。そうすれば、皆が平等になり、地獄がなくなると考えた。

 「仏教は支配や差別とは異なる生き方を示した教えだと思う」。原発事故の避難者支援に携わったのは、自然な流れだった。

 同じ福島の住民でも、放射能への不安を抱えて暮らす人と、そうでない人がいる。県外に避難する人もいれば、故郷に戻る人もいる。葛藤と対立が分断を招く現状に、胸を痛めてきた。

行動派僧侶の本懐

 「せっかくの教えを持つ浄土真宗のお寺として、苦境に立たされた方に、新しい生き方を獲得してもらう働きができれば」。こうした思いから、多彩な活動に取り組む。

 長崎の被爆者からの寄付金を元に、一般社団法人「リボーン」を設立。避難者や移住者、福島に戻った人たちに、無利子融資や情報提供などの支援を行っている。

 福島地裁で6年余にわたって係争中の「子ども脱被ばく裁判」では、西日本事務局を担当。六ヶ所村の核燃料再処理工場の運転差し止めを求めて宗教者らが今年3月、東京地裁に提訴した訴訟では、原告に名を連ねた。

 自坊や組(そ)では、避難者や移住者を招いて門徒向けの学習会を開いている。地域の農家に呼び掛けて、余ったコメや野菜を分けてもらい、福島に送っているという。

 後藤さんは言う。「お寺を護持しなければ、という思いを皆さんが持ってくださっているので、活動できる。そういうご恩を社会にお返しし、仏法に変えたい」
          ◇
 『ありのままの自分で―東日本大震災・福島原発事故を体験した母娘の選択』は、後藤由美子さんの支援で保養と移住を選んだ福島出身の大関美紀さん・渥美藍さん親子の体験記。心豊かに成長していく姿が描かれている。定価1400円(税別)。せせらぎ出版(06―6357―6916)。
          ◇
【用語解説】組(そ=浄土真宗など)
 教団に所属する一般寺院が地域ごとに集まったグループ。通常、各組には組長(そちょう)が置かれ、組内の事務手続きなどを取りまとめる。組が集まって教区を構成する場合が多い。

(文化時報2020年4月8日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

お寺は子ども預かれる? ママ記者が振り返る一斉休校

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、政府が2~3月に小中高校・特別支援学校の一斉休校を要請したのは記憶に新しい。予定外の休校に苦慮する家庭を助けようと、一部のお寺は地域の子どもを預かったが、難しさもあったという。当時小学2年生だった娘がいる本紙記者が対応を振り返った。(磯部五月)

子ども食堂は、子どもが安全に過ごせる場所としても注目を集めている=2020年1月、東本願寺


高額な預かり保育

 小学校の集団登校班で作る会員制交流サイト(SNS)のグループで、2月27日に一斉休校を知った。親同士で不安を共有するメッセージをやりとりしたことを鮮明に覚えている。

 わが家は学童保育の申請要件を満たさず、民間の預かり保育は1日最長10時間で、保険と交通費を含めると約8千円。仮に15日間預けると12万円が必要な上に、学習指導も給食もない。

 休校を前に、子どもが安全に過ごせる場所はないかと探した。子ども食堂などを含めて調べたが、京都市内では見つからなかった。「お寺は、子どもの受け入れ場所になれないのだろうか」。ふと疑問が湧いた。

全国のお寺が対応

 調べると、全国で子どもを預かろうとするお寺が複数あった。浄土真宗本願寺派極楽寺(新潟県小千谷市)の麻田弘潤住職は、研修会講師などの自身の仕事がキャンセルになり、3月4日から自身の子ども3人と一緒に地域の子どもたちを最大10人受け入れた。

 昼食は弁当持参で、お寺の中での過ごし方は自由。周知は公開範囲を限定したSNSで行い、必要以上の責任を負わないよう配慮した。麻田住職は「お坊さんは、生き方やものの見方を説く。何かが起きた時が今なのだとしたら、仏さまの教えを生かすのは今ではないか。お寺が少しでも立ち止まって考える場所になってほしい」と話した。

 浄土真宗本願寺派恩栄寺(石川県加賀市)では、日下賢裕住職が地元の山中温泉街で子どもたちに直接声をかけ、3月2日から顔見知りの小学生5、6人が宿題を持って集まったという。日下住職は「特別なことをしたという意識はない」と振り返る。お寺が子どもたちの日常生活に溶け込む原風景があった。

 一方で、思うように進まなかった寺院もあった。

 日蓮宗廣昌寺(高松市)の大道弘喜住職は「廣昌寺臨時お子さま見守り処」を、ボランティアの須田珠恵さんと共同で3月3日に開設。地元のテレビやラジオに取り上げられ、SNSでシェアされるなど反響はあったが、13日までの正式な利用は2件だったという。

 大道住職は「必要な人に情報が届いていないのか、それとも宗教施設への遠慮があるのか。今後に向けた検討が必要」と総括する。ただ、それでも「喜ばしいきっかけではなかったが、これを機会にお寺が開かれていけばいいと思う」と力を込めた。

 臨済宗妙心寺派東國寺(静岡県藤枝市)は、小学1年生以上の児童を対象とした「自習室」を3月5日に始めた。塚原史方住職が顧問弁護士と相談し、飲食物の提供を控えることなどを決めて開放したが、13日時点で利用者はなかった。塚原住職は「地域の受け皿や助けになればと考え、現実的な受け入れのあり方を模索した。二世帯住宅が多いという地域性もあったかもしれない」と語る。

 お寺と親しく接する普段の取材では忘れがちになるが、一般の人々には宗教施設への入りにくさが、やはりあるのだろうか。

自治体と連携可能

 大谷栄一佛教大学教授(宗教社会学)は「調査に基づいた意見ではない」と前置きした上で、「各お寺が文化活動や社会活動を通じ、布教・伝道以前の日頃の関係性を、地域と深める必要があるのではないか」と指摘する。実際に子どもを預かるかどうかは、「お寺が災害時に避難所となることで自治体と協定を結ぶ例に倣い、市町村レベルで連携できる可能性がある」と分析した。

 文化庁の宗教年鑑によると、2018年時点で全国には寺院が7万7112カ寺ある。新型コロナウイルスが終息し、社会が日常を取り戻すとき、お寺が子どもを預かる取り組みだけでなく、地域の子ども食堂などの社会活動にコミットし、公共性を高めることで、大きな力となる。

 結局、わが家は他県で生活する夫の両親に娘を預かってもらい、3週間離れて暮らすことになった。運良く義父母が助けてくれたが、頼る人がなく、民間に預けるお金もない家庭は、仕事を休まなくてはならず収入が減り、経済的困難に直面したはずだ。

 子育て世帯は家族や会社、周りに「迷惑をかけないように」と、少なからず無理をしながら生きている。1時間でも30分でもいい、子どもが境内の端っこで遊んでいられるような、用事がなくても安心して立ち寄れるようなセーフティーネットとしてのお寺があれば、と実感した。

(文化時報2020年3月28日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

ITで災害に備え 阪大院「災救マップ」リニューアル

 稲場圭信大阪大学大学院教授(宗教社会学)らの研究グループは、寺社などの宗教施設を含む避難所約30万カ所の情報を公開するインターネットサービス「未来共生災害救援マップ(災救マップ)」をリニューアルした。被災状況の共有が可能になったほか、独立電源通信機「たすかんねん」との組み合わせで高い防災効果を発揮する。ITを活用した災害への備えが進む。

災救マップのリニューアルについて発表する大阪大学大学院の稲場圭信教授


 災救マップは、2014年にスマートフォン用の無料アプリとして始まったが、頻繁なメンテナンスが必要であったことから、今回のリニューアルによってウェブブラウザでのサービスとした。

 スマートフォンやタブレット端末などから被災状況を投稿できる機能を充実させた。「避難所として利用可能か」「傷病者、要介護者は何人か」「水道などのインフラは稼働しているか」といった情報をリアルタイムに共有できる。津波発生時に備えて現在地の標高も表示できる。

 稲場教授は「情報の精度を高めるため、利用者からの情報提供を受け付けている。たくさんの人に利用してほしい」と話す。

 独立電源通信機「たすかんねん」は、東日本大震災の際に広範囲で通信手段が失われたことを教訓に、一般企業などと共同で2017年から開発。太陽光と風力で発電し、非常用電源として携帯電話約200台を充電できる。Wi-Fi 機能を搭載し、非常時には災救マップと連動して安否情報を収集する。

独立電源通信機「たすかんねん」


 LED照明や防犯カメラも備え、平常時の防犯などにも役立つ。稲場教授は「お寺にもぜひ取り入れてほしい」と話していた。

(文化時報2020年3月28日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

開創700年へ 石川・輪島市と連携 曹洞宗大本山總持寺

 曹洞宗大本山總持寺(横浜市鶴見区)が開創700年を迎える来年に向け、總持寺祖院のある石川県輪島市と共同で「禅と海 里づくり・交流促進プロジェクト」に取り組んでいる。開創700年の機運を高めるロゴやのぼり、ポスターを制作。9月11~21日には祖院を中心に門前町を彩るライトアップイベント「ぜんのきらめき」が行われる。

ロゴやポスターを発表する大本山總持寺の関係者ら

 ロゴマークは「700」の文字と、祖院のシンボルである山門や白字橋をあしらった。のぼりは、ロゴの背景に枯山水を表現したデザイン。ポスターには開山の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師とゆかりの定賢律師を描き、「お二人の想いが未来へ受け継がれる」との言葉を記している。

 總持寺は1321(元亨元) 年に創建。1898(明治31)年の大火で境内が焼失し、1911(同44)年、大本山は輪島市から横浜市鶴見区に移り、大本山があった地は祖院となった。

 祖院はその後、山門、仏殿などが再建されて、根本道場の威厳を伝えていたものの、2007年の能登半島地震により伽藍が大きな被害を受けた。

 今年3月には交流促進プロジェクトの会議が開かれ、大本山總持寺の乙川暎元監院、總持寺祖院の鈴木永一監院、梶文秋輪島市長ら20人が出席。全国曹洞宗青年会の山田俊哉副会長らが、来年3、4月に祖院の境内で開く精進料理や一文字写経などについて説明した。

 9月11~21日の「ぜんのきらめき」は、開創700年記念イベントとして実施。山門にデジタルアートを投影し、ペットボトルで作った照明が境内を埋め尽くす。和太鼓の演奏も行われる。

總持寺開創700年を記念するポスター

 さらに来年4月6日には能登半島地震からの復興を祝う落慶法要を営み、来年9月12~15日には大本山總持寺開創700年慶讃法要・御両尊御征忌会を行う。

 乙川監院は「輪島市が積極的に開創700年を後押ししていただき、曹洞宗の未来を背負う青年会も多彩なイベントを計画してくれている。ぜひ多くの人に地震から復興した祖院に来ていただき、輪島市のランドマークとして地域を盛り上げたい」と話している。

(文化時報2020年4月1日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

肩肘張らずに名刹改革 異色の尼僧が心掛けたこと

 「徳川家の許しがなければ入れない」。京都市伏見区の浄土宗清凉院は、かつてそう言われた名刹だったが故に、かえって人々から敬遠されていた。それが今では、檀信徒や地域住民が運営に積極的に関わる寺へと変化。波乱万丈の半生を歩んできた橘髙貞量住職(55)が、風穴を開けたという。何がそうさせたのか。(大橋学修)

地域の子どもと笑顔を見せる橘髙貞量住職=京都市伏見区の清凉院


 清凉院は、徳川家康の側室、お亀の方が、尾張徳川家の始祖である義直を産んだ地にある尼寺。普段は檀信徒以外には公開していない。

 唯一拝観できる機会が、浄土宗京都教区が毎年秋に開催する「京都浄土宗寺院特別大公開」。寺宝の見学や法話など、寺院ごとに特色を生かした行事が行われる人気の企画だ。

 清凉院では、橘髙住職が寺の縁起や本尊について解説し、離れで「尼カフェ」と名付けた接待を行う。好評の丹波大納言を煮込んだぜんざいは、檀信徒の松原春美さん(72)のお手製。これを楽しみに毎年参拝する人がいるほどだ。ほかにも十数人の檀信徒らが、カフェや受付で運営に携わっている。

 最初に特別大公開に参加したのは、橘髙住職が入寺して間もない2013年秋。とても一人では対応できないと思い、檀信徒に手伝いを頼んだ。「何でもできると肩肘張らずに、何もできないからと素直にお願いすることが大切。そうすれば、楽になれる」という。

 檀家総代の種子田隆男さん(80)は、自分ではできないことを全て請け負ってくれた。橘髙住職は「私にとってナイトであり、お父さん。阿弥陀さまの片腕のよう」と語る。

みんなで奉仕して、食べて、楽しんで

 特別大公開への参加がきっかけとなり、清凉院は徐々に地域に開かれていく。書道教室やヨガ教室の会場となり、月に1度行う境内や本堂の大掃除には、教室の生徒らも参加。近所の子どもたちが、池のメダカをのぞきに来るようになるなど、人の輪ができ始めた。

 檀信徒の寒風澤(さぶさわ)和子さん(68)は「みんなを喜ばせるのが好きな庵主さんを中心に、ワンチームになっている」。松原さんは「まるで実家に帰ったかのような家庭的な感覚で、掃除の日が本当に楽しみ」と語る。

 橘髙住職が入寺した当初は、檀信徒同士の関係がうまくいっていなかったという。

 このため橘髙住職は、人と人をつなぐことに心を砕き、相手の欠点を見るのでなく長所に気付けるよう導いた。仲たがいしていた人々は、互いに良い印象を持つようになり、相手の体調を気遣うほどになった。「お寺は人が集まる場所。みんなで奉仕して、食べて、楽しんで。それが本来の姿だと思う」と語る。

寂聴さんから紹介

 そんな橘髙住職は、異色の経歴の持ち主でもある。

 大阪芸術大学に進学したものの、「諸行無常を感じた」として、中退。いろいろな物事を客観的に見つめるようになりたいと、瀬戸内寂聴僧尼の門をたたき、清凉院を紹介された。京都市東山区の浄土宗尼僧道場で学んだ後、加行を受けて浄土宗僧侶となった。

 だが、教師資格を得たにもかかわらず、確執があって清凉院を退山。故郷に帰って葬儀会社に就職した。父の介護と死を経験した後、介護福祉士に転身し、さらには介護支援専門員(ケアマネジャー)となった。「約20年間、いろいろと旅をしてきた」と言う。

 転機となったのは、京都医療福祉専門学校(京都市伏見区)の通信科で福祉を学び始めたこと。スクーリングで京都に通う際、再び清凉院に顔を出すようになり、師僧で当時住職だった福谷貞元僧尼と交流が復活した。

 ある日、「あんたを跡継ぎにする」と師僧から突然の電話があった。「終活でも始められたのか」と軽く受け止めた翌日、仕事中に見知らぬ番号から立て続けに電話が入った。師僧の逝去を知らせる連絡だった。

 長すぎたブランクのせいで、すぐには入寺できなかった。清凉院に関係する僧侶の支援を受けながら、半年かけて学び直し、住職に就任した。

 紆余曲折を経たことで、大切な人を亡くして悲嘆に暮れる人々や、介護の悩みを持つ人々に、共感できるようになった。橘髙住職は言う。

 「一般にはおせっかいと思われることも、僧侶という立場だと、自然なこととして受け止めてもらえる。阿弥陀さまがしたいことを『代わりにしなさい』と言われているように感じる」

(文化時報2020年3月25日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム

介護者カフェが寺開く 京都・金剛寺

 介護者がつらさや悩みを語り合う「介護者カフェ」を始める浄土宗寺院が増えている。京都市東山区の金剛寺(中村徹信住職)は、コーヒーを味わいながら心をほぐす取り組みを基に、地域に開かれた寺院を目指してきた。2020年度は、宗門による「介護者カフェ」の立ち上げ支援が本格化。さらなる広がりが見込まれることから、金剛寺の活動が先進事例として注目されそうだ。(大橋学修)

介護者カフェを開いている京都・金剛寺の中村徹信住職

 在家出身の中村住職が金剛寺住職に就任したのは06年。どんな公益活動ができるか模索し、当初は写経会など仏教色を前面に出した催しを企画したが、手応えを感じなかったという。

 転機は5年前に訪れた。「お寺で活動したい人がいる」と知人を通じて紹介されたのは、喫茶店のマスター。ミルを使って参加者自身が豆をひき、自分でコーヒーを入れて共に味わう「おてらカフェin金剛寺」を始めた。

 開始は午前7時。参加者らは朝のコーヒータイムを楽しんだ後、木魚体験の別時念仏会を営む。

 さらに、参加者の特技を発表するワークショップの時間も設けている。参加した若者が会員制交流サイト(SNS)で拡散させ、さまざまな人が集まるようになったという。

話しやすい場の力

 介護者カフェを始めたきっかけは、19年1月に宗門が開いた総本山知恩院冬安居道場(教化高等講習会)。下村達郎香念寺住職(東京教区)が講演し、自坊で運営している介護者カフェについて紹介していた。

 お寺でカフェを開くノウハウは、十分に積んでいた。「これならできる」。下村住職から、介護者のケアに詳しい浄土宗総合研究所の東海林良昌研究員を紹介され、宗門の支援を受けることに。同年9月に1回目を開催した。

 金剛寺の介護者カフェでは、介護の専門家を招いて、講演と座談会を行っている。今年今月は新型コロナウイルスの感染拡大を懸念して中止したが、これまでに4回開いた。

 中村住職は「会館などで行うケアラーズカフェとは異なり、歴史を培った寺が持つ『場の力』が話しやすさにつながっている」と指摘。「介護者はそれぞれ悩みが異なっても、自分1人だけではないのだと思える」と語る。

 浄土宗は、介護者カフェについて「苦に寄り添う活動だからこそ、寺院で行う意義がある」としている。19年度から支援員の派遣を試行しており、金剛寺を含む10カ寺で開設にこぎつけた。
 
 20年度はさらに実施する寺院を増やそうと、立ち上げに対する支援経費を一般会計予算に盛り込んでいる。

 在宅介護をしている介護者は、気持ちを打ち明ける機会や場所が限られている。一方で寺院にとっては、檀信徒が各地に分散する都市部だと特に、地元住民から地域の拠点として認識してもらえない悩みがある。

 中村住職は「朝のカフェと介護者カフェで、人と人をつなぐ触媒の役割を果たせたことで、新たなコミュニティーが形成されてきた」と手応えを感じている。
              ◇
 【用語解説】介護者カフェ
 在宅介護の介護者(ケアラー)らが集まり、悩みや疑問を自由に語り合うことで、分かち合いや情報交換をする場。「ケアラーズカフェ」とも呼ばれる。主にNPO法人や自治体などが行い、孤立を防ぐ活動として注目される。

 【用語解説】別時念仏会(べつじねんぶつえ=浄土宗など)
 時間を特別に設けて念仏をとなえ続ける修行方法。

(文化時報2020年3月21日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム