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【取材ノートから】震災を伝える意味 過去との接点

 阪神・淡路大震災から25年が経過した。私の記憶に残る震災は、被災した子どもたちへ寄付するための玩具を「あげていい?」と母が、4歳の私に一つ一つ確認し、父と一緒にどこかの集約所へ持っていったことのみだ。震災を知らないに等しい私にとって、阪神・淡路大震災は「過去の大地震」という認識だった。
 
 現在、神戸の街は美しく再建され、多くの人々が当たり前に生活している。市民の約半数が震災を経験しておらず、徐々に風化していく震災は「歴史」になりつつある。
 
 一方、宗教者は毎年1月17日に犠牲者の追悼法要や儀式を営み、参列者は「忘れてはいけない」と口々に話す。宗教者の役割とは何なのか。そもそも震災を伝える意味とは、何だろうか。

教会へ向かう車椅子の女性=1月17日、神戸市長田区

 2020年1月17日、早朝5時の神戸。追悼儀式の取材へ向かう途中、暗闇の中をゆっくりと、教会へ向かう車椅子の女性に目が留まった。彼女は神戸で震災を経験し、家族3人でつらい日々を乗り越えて生きてきた。「支え合い、心を通い合わす意味を伝えたい」。そう話してくれた。
 
 経堂に座る牧師は震災を直接経験してはいないが、生まれ育った神戸の街にさまざまな思いがあると言った。「きょうが過ぎて終わる話ではない。傷は一生残り、続いていく。26年目が始まった」と、十字架と位牌を見つめた。
 
 法要を営む僧侶は、志半ばで亡くなった犠牲者や、遺族の思いを噛みしめた。「今が当たり前になってはいけない。震災の経験を後世に伝える必要がある」と力を込めた。
 
 震災の傷跡は、今も人々の記憶の中に残っていた。
 
 今の神戸は6343人の尊い犠牲と、被災者や支援者たちの苦しみや悲しみと向き合った時間の上につくられている。震災で負った心の傷は深く、25年で消えることはなかった。それを今日まで支えてきたのが、人と人とのつながりだった。

 「忘れてはいけない」の言葉には、今の神戸が存在する意味や、傷ついた人々の生きる思いが込められているのだと知った。
 
 人々が手を取り合い、支え合わなければならない瞬間はいつか必ず来る。そうした瞬間のためにも、過去や現在の人々をつなぎ、未来へと伝える接点であることが、宗教者の大切な使命なのではないだろうか。(大槻優希)

(文化時報2020年2月1日号から再構成)
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日航機事故の遺族、僧侶に研修

 1985年8月12日の日航機墜落事故で妻を亡くした工藤康浩さん(59)が、大阪の浄土宗僧侶らを前に講演した。浄土宗大阪教区が行った「グリーフ(悲嘆)研修」の講師として登壇した。悲嘆を抱える人に寄り添うには、第三者と遺族の中間に立つ「2・5人称」の視点が大切だと説き、悲嘆が生きる力に転換する様子を見守ることが必要だと訴えた。

僧侶を前に講演する日航機事故遺族の工藤さん

 工藤さんは結婚後半年で妻を亡くした後、現在の妻である理佳子さんと再婚した。「彼女は、遺族である僕に出会ってしまった。自分自身の夢もあっただろうが、全てを閉ざして僕に寄り添うことを決めてくれたのだと思う」と語る。
 
 事故後の周囲の人々との関わりについては「妙に同情する人がいたが、悲しみの中にいると、それさえも煩わしく感じられた」と振り返り、「時間がたてば忘れるという人もいる。それでも、悲しみは一生残る。悲しみを消すなどということは、あってはならないと思う」と、寄り添いのあり方に言及した。
 
 事故を起こした日航と関わる中で、大切だと感じるようになったのが「2・5人称」の視点。「1人称は被害者、2人称は遺族、3人称は第三者。日航とは互いに2・5人称の立場になったことで、同じ方向を向くことができた」と振り返り、辛苦に耐える人との接し方においても、同様の視点が必要だと述べた。
 
 さらに、事故の風化をどのように見守るのかが第三者には問われているとの見方も示した。「風化は元の姿に戻ろうとすること。当事者は、ゆっくりと変化し、元の生活に戻っていく。風化を止めることは、悲惨な状況をとどめるということになる」と指摘。「変化を理解してもらうことが非常に大事。復興したり成長したりと、悲しみを耐えようとすることに、どうやって寄り添っていけるか。変化に応じて見守ってほしい」と語り掛けた。
 
 その上で、「悲しみに明け暮れるのでなく、悲嘆を別の形に変えていく作業が必要。生きるエネルギーに転換していくことが大切だと感じる」と胸の内を明かした。
 
 受講した僧侶らは「相手の立場になって話を聞くといわれているが、3人称でも2人称でもないと気付かされた」「変化を見つめることが大切だと思った」と自らの姿勢を問い直していた。
 
 工藤さんに寄り添い続けた理佳子さんは「悲嘆を抱える人は、寄り添う人がそばにいることに気付けないこともある。それでも寄り添い続けることが必要」と話している。

 グリーフ研修は1月24日に大阪教務所で行われた。

(文化時報2020年1月29日号から再構成)
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看護と仏教、連携を模索

 医療では解決できない患者の思いに寄り添う場として、寺院を活用できないだろうか。看護と仏教が、在宅ケアなどで協働できる可能性はあるのか。そうした協力関係を模索するリレートーク「看仏連携」が、大阪市天王寺区の浄土宗大蓮寺(秋田光彦住職)で開かれた。医療・介護従事者と僧侶ら計約100人が参加。宗教者と医療者の実践例を聞いたほか、ワークショップを通じて課題を共有した。

「看仏連携」について話し合う僧侶と医療・介護従事者ら=浄土宗大蓮寺

 リレートーク「看仏連携」は2020年1月18日に開催された。参加した医療・介護従事者らは「医療・介護は閉鎖された世界。患者や利用者、家族を助けたくても寄り添えない部分がある」と口をそろえ、宗教者に対して死生観のプロフェッショナルとしての役割を期待した。
 
 緩和ケア病棟看護師の松山寛子さんは「医療従事者と患者には見えない上下関係がある。本当の思いを患者さんは話しておらず、こちらも受け止めきれていないと感じている」と指摘。立場の違いで本音が言いづらくなっているとし、「家族や友人らではない第三者が必要」と語った。

 宗教と関係のない人が、患者や家族の話を聞く「傾聴ボランティア」を行うケースもあるが、宗教者は死生観にたけているからこそ、医療現場に必要だという。松山さんは 「『天国に行ったら愛する人に会える』と言われるだけで、救いになる」と話した。

 兵庫県内の病院で勤務する看護師の松原綾さんは「僧侶であるからこそ、スピリチュアルな悩みに迫れる。寄り添っていただくだけでも救われる」と強調。「残された家族 のグリーフ(悲嘆)ケアにも僧侶の力が必要。泣ける自分がいることを知ってもらうこともできる」と語った。

大勢の医療・介護従事者が僧侶らの話に耳を傾けた=浄土宗大蓮寺

 在宅医療の現場でも宗教者が必要、との声もあった。国立東京医療センター看護師長の澁谷舞利子さんは「自分らしく、自宅で最期を迎えるために、僧侶との連携が必要」と説き、京都鞍馬口医療センター看護師長の一條智子さんは「患者は思いを話す場がない。終活など、医療では対応できないことを話し合える場が求められている」と話した。

 厚生労働省は、医療・介護や生活支援などを一体的に提供する「地域包括ケアシステム」を提唱。高齢者が住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最期まで続けられる環境づくりを進めている。

 地域包括ケアシステムの目標年度は2025年。今後は在宅医療が活発になることが予想されている。訪問看護師のニーズが高まるとともに、宗教者には「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング=ACP)などを通じて早い段階から死生観を語り合うことが求められる可能性もある。
 
          ◇
 
 リレートークで登壇した僧侶や医療者らは、どのような実践を重ね、「看仏連携」が必要だと考えるに至ったのか。登壇者の主な発言を紹介する。

宗教とケアの出会いを
秋田光彦・浄土宗大蓮寺住職

秋田光彦氏 1997年に大蓮寺塔頭の應典院を再建し、社会・文化活動の拠点として開放。近年は多様な専門職と終活に取り組む

 お寺は全国に約7万4千カ寺あるとされる。コンビニや保育所の数をはるかにしのぎ、最大の社会資源であるといえる。
 
 資源には四つある。まず歴史・伝統、次に自然。鎮守の森という言葉があるように、お寺があると緑は守られる。三つ目は空間。人々が集まって祈り、学ぶ。そして時間。合理的に割り切れないあの世とか永続的な時間の感覚が、お寺にはある。
 
 仏教は伝統儀式や作法を通じて、日本人の死生観を文化的に支えてきた。一方で、少子化や家族の多様性により、寺離れや墓じまいが進んでいる。公共や臨床の場に宗教者が参画することも増えてきた。
 
 高齢者が住み慣れた地域で自分らしい暮らしを全うできるよう、厚生労働省が進めている「地域包括ケアシステム」は、地域住民が助け合う「互助」を打ち出しているが、町内会があれば問題が解決するわけではない。どのような医療やケアを受けたいかを事前に話し合っておく「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング=ACP)は、病院から在宅へ、施設から地域へ、治療から対話へとケアの基軸を転換させており、宗教者には親しみがある。
 
 だが、宗教者には専門性がなく、ケアの現場に入ることへのためらいがある。ケアをする側には、宗教者への戸惑いがある。お互いがきちんと出会うことが大切だ。
 
 お寺は、いろいろな方々が出会い、交流できる場でもある。「双方が連携すべきだ」と、強く言うつもりはない。揺らぎながら、関わり合うきっかけができればと思う。

お寺で開く「介護者カフェ」
東海林良昌・浄土宗雲上寺副住職

 

東海林良昌氏 宮城県塩竈市生まれ。浄土宗総合研究所研究員、世界仏教徒連盟副事務総長なども務める。専門は浄土宗史など。

 在宅介護では、介護者が深い悩みを抱えるケースが多く、ときには命が失われる。高齢者同士による「老老介護」や、子育てと介護を同時に行う「ダブルケア」、介護離職などの問題が顕在化している。
 
 孤立しがちな介護者へのケアは、行政サービスの対象となっておらず、草の根の市民活動が重要だ。お寺は地域のよりどころ。介護者同士の情報交換や語り合いができるよう、自坊の雲上寺(宮城県塩竈市)で「介護者カフェ」を開催している。

 意見を交えるのではなく、共に悩みを語り、分かち合う。お下がりを利用し、お寺にある物を使っている。仏さまが見守っているという寺院の場の力と、僧侶や寺族の共感力が特色だといえる。
 
 浄土宗としても開催を支援しており、9都道府県20カ寺で実施している。地域の中で「助けて」と言える場所は、たくさんあっていい。お寺がそういう場所になればいいと考えている。

看護から仏事へのバトンパス
三浦紀夫・ビハーラ21事務局長

三浦紀夫氏 真宗大谷派僧侶。得度前は百貨店で10年間、仏事相談員として勤めていた。医療・介護と連携し、独居高齢者を支援している。

 終末期ケアからグリーフワーク(喪の作業)、つまり看護から仏事へのバトンパスが、私の考える第一の看仏連携だ。
 
医師や看護師は、患者の死亡確認から霊安室に向かうところまでは知っているが、その先どうなるのかは分かっていない。逆に僧侶は、その前のことを知らない。果たして、 バトンはしっかり手渡されているのか。投げ渡されているのが実情ではないか。
 
第二は、患者や家族の不安・不快な気持ちを和らげるアプローチ。接し方の難しい患者の元へ僧侶が行き、気持ちを聞かせてもらう。
 
そして第三が、僧侶による看護・介護職への「死の教育」だ。
 
私がセミナーで講義すると、医療者はかなりの確率で、人が命を終えたらどうなるかを「考えたことがない」と言う。そういう医療者は、しっかりした死生観を持たずに、人が亡くなる場面に立ち会っていることを自覚してほしい。

がん看護で考える看仏連携
志方優子・JCHO大阪病院がん看護専門看護師

志方優子氏 大阪府立大学看護学部博士前期課程修了。JCHO大阪病院では緩和ケアチーム看護師として患者や家族と関わっている

 2006年のがん対策基本法制定に伴い、がんとの共生がうたわれるようになった。医療者でも理解は深まっていないが、医療現場ではがんと診断されたときから治療と並行して緩和ケアを行い、生活の質(QOL)の改善を図っている。
 
 全人的苦痛(トータルペイン)という考え方がある。痛みやだるさといった身体的苦痛、不安や鬱などの精神的苦痛、社会的苦痛、それからスピリチュアルペインだ。
 
 「なぜ私がこんな病気になったのか」「罰が当たった」「自分の人生は無意味だった」。こうした表現で現れてくるスピリチュアルペインは、病院だけでは解決できない。解決できると思う方が、怖い気もする。
 
 医療者には、問題解決型の思考が染みついてしまっている。答えを出すことが急かされないコミュニケーションの場や、困っているときにそっと手を差し伸べるような環境が、必要とされているのではないだろうか。

仏教の死生観からケアを考える
鍋島直樹・龍谷大学文学部教授

鍋島直樹氏 龍谷大学大学院実践真宗学研究科長。臨床宗教師研修の研修主任として、心のケアに当たる僧侶を養成している

 「地域包括ケアシステム」においては、多職種連携が重要とされている。看護師と僧侶は、相互に補完する関係にあると言えるだろう。
 
 死は亡くなった本人だけではなく、悲しみ、弔う人がいて初めて成立する。死とは、悲しみと愛があふれることである。
 
 いつどんな所でも、心を支えてくれるよりどころとなるのが、宗教だ。仏教には死生観と共に救済観がある。善悪を問わなくてもいい。全ての死は悲しく、尊く、そのままで救われる。
 
 スピリチュアルケアに当たる僧侶は、患者の苦悩の中にある心の物語に寄り添う。原点は〝 Not doing, but being 〟(何かをすることではなく、そばにいること)。くず籠のようにそばにいて、ありのままの気持ちを受け止める。
 
 東日本大震災を機に東北大学で誕生した臨床宗教師の養成も進んでいる。布教や宗教勧誘をせず、相手の気持ちを尊重するのが特徴となっている。

(文化時報2020年1月25日号から再構成)
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寺社にウォーターサーバー 無償で1000台

 京都市内の寺社などに1000台のウォーターサーバーを無償で配置しようと、京都市とウォータースタンド株式会社(本多均社長、さいたま市)が2020年1月、連携協定を締結した。マイボトルを普及させてペットボトルの削減を図り、マイクロプラスチックによる海洋汚染を防ぐのが狙いだ。3年で配置を完了させる計画で、仏教教団や観光団体に協力を求めていく。

連携協定の締結式で握手を交わす門川大作京都市長(右)と、ウォータースタンド株式会社の本多均社長

 配置するのは、水道直結型で電源を必要としない浄水装置。内部に設けた3つのフィルターを通し、おいしい水を提供する。拝観者の多い寺社や公共施設に合計1000台を寄贈し、どこでも手軽に給水できる環境づくりを進めることで、マイボトルを持ち歩くライフスタイルを提唱する。
 
 工事費やメンテナンス費は、ウォータースタンド社が負担。京都市が仏教教団や観光団体との仲介役を担う。環境保全を積極的に推進しようとする企業には、有償での設置も提案していく。
 
 環境省によると、日本国内のペットボトルの年間廃棄量は約230億本で、うち京都市内は2億5000万本程度と試算されている。
 
 一方、ウォータースタンド社が大阪府内で行った調査では、府民の79%がマイボトルを持っているものの、大半が使っていなかった。同社は、浄水装置のある給水スポットが増えれば、マイボトルの利用が進み、京都市内のペットボトルの廃棄量は6000~1万本減らせるとしている。
 
 京都市は、1997年に国連気候変動枠組み条約第3回締約国会議(COP3)で京都議定書が採択されたのを機に、環境保全活動を積極的に進めており、その一環として協定締結を決めた。節水型の洗濯機やトイレの普及で上水道使用量が低下し、水道会計の収入が減少していることも背景にあるという。
 
 マイクロプラスチックによる海洋汚染を防止する活動は、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」の一つにも掲げられている。全日本仏教会や複数の伝統仏教教団はSDGsを推進しており、ウォータースタンド社は、浄水装置の設置が寺社による社会貢献の一助になるとみて、積極的な導入を呼び掛けている。

(文化時報2020年1月22日号から再構成)
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