月別アーカイブ: 2021年2月

悲しむ私 見守る仏…震災支援から台風被災

 浄土宗大本山増上寺布教師会が東日本大震災で被災した宮城県岩沼市で開く「法話の会」に、主催者の一人として参加する郡嶋泰威・量寿院住職(50)=千葉県南房総市=は、2019年9月に千葉県を襲った台風15号の被災者でもある。支援する方とされる方、両方を経験して分かったのが、「娑婆世界=用語解説=では全ての人が快適に生きられない」ということ。だからこそ、念仏の教えが大切だと気付いた。(大橋学修)

浄土宗量寿院の郡嶋泰威住職

 浄土宗浄蓮寺(千葉県鋸南町)の長男として生まれた。幼い頃から僧侶になることに疑いを持たず、進学先は大正大学仏教学部浄土学コース。大学院に入ってからは、傳通院(東京都文京区)で実務にも励んだ。愚直に学ぶ真面目な青年僧だった。

 修士課程を終えた後も傳通院で勤務する傍ら、布教師養成講座に入行。話の組み立て方や高座=用語解説=に上った際の所作などを学び、高座説法の実演を行った際、指導員にこう指摘された。「あなたの信仰はどこにあるのだ。高座に上がる資格はない」

 思い返せば、全て理屈で考え、頭で組み立てただけだった。もう一度、ゼロから学び直すことにした。

 学んできた書物を改めて読み、宗祖の言葉に触れると、気付いたことがあった。「法然上人を見失わなければ、迷ったときに戻る所がはっきりする」。念仏行を続けることは、極楽往生を目指すことだと確信した。蓄積してきた知識に、信仰という芯が通った。

 「思えば、これが本当の意味で、僧侶としてのスタートだった。葬儀を勤める際には、『この方を救ってくださる阿弥陀さまがいてよかった』と感じるようになった。遺族にも、この気持ちを伝えられることを、本当にありがたいと思う」

震災遺族との出会い

 35歳で傳通院を退職してからは、布教師として各地を飛び回るようになった。2012年には大本山増上寺布教師会の活動で、東日本大震災の被災地に出向き、震災遺族や自死遺族のために法話を行う機会を得た。「現場を見てショックを受けた。遺族の方の悲しみの深さに打ちのめされた」

 それから毎年、縁のあった岩沼市を年2回訪問し、「法話の会」を開催してきた。その中で、教えを求める人が多いことに気付いた。「募っていたイライラが、法話を聴くと収まる」と話す人もいた。

 「訪問するには本当に勇気がいる。ただ、阿弥陀さまのことをストレートに伝えることが大切。余計なことはいらない」

 「法話の会」は、大切な人を亡くしたつらさを抱える人々が集まり、思いを語り合う場所にもなっている。ただ、震災から9年という時の流れとともに、「まだそんな所に行っているのか」と言われる人も出てきたという。

 「被災地であっても、自分の気持ちを迂闊に言葉に出せなくなっている。つらさや悲しみを安心して出せる場所が必要。心の支えがないと、心がもたない」。郡嶋氏は話す。

つらくても苦しくても

 郡嶋氏が住職を務める量寿院は、かつては住職がいなかった。縁あって入寺することになったが、本堂だけの寺院で、住む所がない。そのため、車で10分ほど離れた実家の浄蓮寺で住職の父と同居し、副住職として法務を勤めている。

 千葉県を中心に甚大な被害をもたらした2019年9月の台風15号は、関東地方に上陸した台風では観測史上最強といわれる勢力で、浄蓮寺も多大な被害を受けた。

 本堂の屋根が全て吹き飛ばされ、生活の場である庫裏や客殿の瓦が飛散。雨漏りによる浸水も深刻で、本堂はもとより、庫裏も使用不可となった。「一晩で壊れた。やはり、釈尊が説かれた諸行無常の通りだ」

 皆でなんとかやっていくしかないと、さまざまな人から支援を受けながら、復旧に取り組んだ。そこへ、被災から1年もたたないうちに猛威を振るった新型コロナウイルス。外出自粛を余儀なくされる状況で、被災時の心境がよみがえった。

 「つらい時も苦しい時も、阿弥陀さまは泣き暮れる私を抱きしめて、『つらいよな、苦しいよな』と泣いてくれる。ただ念仏申すだけで、必ず最後は極楽浄土に助けてくれる」

 そして、コロナ禍で閉塞する社会の人々に向けて語る。「独りじゃない。阿弥陀さまが見てくださっている」
        ◇
【用語解説】娑婆世界(しゃばせかい=仏教全般)
 汚辱と苦しみに満ちた現世を示す言葉。サンスクリット語で忍耐を表す言葉を音写したもので、浄土の対比語として用いられるため、「忍土」とも漢訳される。

【用語解説】高座(こうざ=仏教全般)
 説教を行う僧侶のために一段高く設けた席で、高座を設けた説法を「高座説法」あるいは「節檀(ふしだん)説法」と呼ぶ。説法が大衆芸能化したことで、後に寄席で芸を演ずる場所としても用いられるようになった。

(文化時報2020年7月15日号から再構成)
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【取材ノートから】人とつながることの意味 安岡遥

 新型コロナウイルスによる国内初の死亡者が確認されて間もない2月下旬、私は本紙記者への転職を機に、福岡県の実家から京都市へ移り住んだ。京都へ向かう新幹線の乗客は一様にマスク姿で、感染への懸念からか会話もまばらだった。同じように振る舞いながらも、その光景を少々異様に感じたことを覚えている。

 だが今では、外出時のマスク着用は当たり前。入社したばかりの職場でも、早々に在宅勤務が呼び掛けられ、電話やテレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じた取材が増えた。「人とのつながりがなくなっても、案外生きていけるものだ」。ふと、そんな思いが湧く瞬間があった。

 考えを改めるきっかけとなったのは、「Zoom」を利用して法要の配信を行う群馬県太田市の曹洞宗寺院、瑞岩寺への取材だった。

 住職は、「大切な法要に、感染を心配せず参加してほしい」との思いから「Zoom」による配信を提案する一方、「悲しみを癒やすという点では、対面での法要に及ばない」と強調した。

 「花や線香を買ってお寺に足を運び、故人を知る人同士で思い出を分かち合う。そうした営みの中で、人は死別の悲しみを癒やしていくものだ」。その言葉を聞いて、思い出す光景があった。

 私は3年前、5歳年上のいとこを登山中の事故で亡くしている。生前の彼とは挨拶を交わす程度の間柄で、会話らしい会話をした記憶はほとんどなかった。唐突に死を知らされ、「なぜ、もっと話しておかなかったのか」と後悔が残った。

 年忌法要で親族が集まるたび、叔母は彼の思い出を語り、涙を流す。子どもの頃の笑い話が、いつの間にか涙に変わっていく。その姿を見るのはつらかったが、他者と悲しみを共有するこうしたひとときが、グリーフ(悲嘆)ケアにつながっていたのではないかと思い当たった。

 コロナ禍の今、「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」を合言葉に、葬儀や法要が縮小されつつある。感染症で亡くなった故人と、最期の対面すら果たせなかった遺族もいる。こうした傾向が、寺院消滅に拍車を掛けるのではないかと懸念する宗教者は多い。

 だが、死や別れを誰もが意識せざるを得ない今だからこそ、他者と関わることに意味があるのではないだろうか。「宗教を必要としない世界の方が、実は幸せなのかもしれない。それでも人が宗教を求めるのは、大切な人を亡くす悲しみに耐えられないからだ」。そう語り、遺族らのつながりを模索する瑞岩寺住職の姿に、人との縁を見つめ直す機会をいただいた。

(文化時報2020年6月27日号から再構成)
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知性なくして信仰なし 迷走の20代、行き着いた先は

 「目に見えないものを大切にするためには、知性が必要だ」。浄土宗阿弥陀寺(奈良市)の森圭介住職(44)はそう語る。英語の教員免許と浄土宗教師資格を取得しながらも、マスコミ業界への就職を希望した20代を経て、行き着いた先は学習塾の開設だった。学力低下が宗教離れを招いている、との持論で活動を続けている。(大橋学修)

浄土宗阿弥陀寺の森圭介住職

マスコミか会計士か

 父は上宮学園の教員で阿弥陀寺の僧侶。息子を無理に僧侶の道へ導こうとするのではなく、「勉強を重ね、自分の力でのし上がれ」との教育方針だったという。

 森氏自身は清風中学・高校を経て、関西学院大学文学部に進学。マスコミ業界を目指して就職活動をしたが、失敗した。いったん休学し、英国東部オックスフォードの語学学校に留学。国際感覚をアピールして再挑戦したが、思うような結果は得られなかった。

 そんな折に、大手商社で勤務する高校時代の旧友から、ゴルフに誘われた。上場企業の重役だった旧友の父も加わり、移動中の車内では親子で経済について議論していた。全く付いていけず、自らの不明を恥じた。当時流行だった米国の公認会計士を目指せば、社会のことも分かるし、留学経験との整合もとれると考えた。ただ、このままでは格好がつかないし、収入もない。寺の法務を手伝うことで立場を取り繕おうとした。29歳になっていた。

 当時住職だった祖父は老いを深め、父は教員の仕事が忙しかった。いい口実になったが、公認会計士にはなれなかった。

英会話講師で目覚め

 僧侶資格は大学在学中に取っていた。進学時に取得するよう父に命じられていたからだ。夏季休暇中に浄土宗が開催する少僧都養成講座に入行し、大学4年のときに伝宗伝戒道場=用語解説=を満行して浄土宗教師となった。

 寺に入ったころ、大阪・西梅田で英会話教室を開こうとしていた友人から、講師として手伝ってほしいと声が掛かった。当初はビジネスマン向けで展開していたが、方向転換して奈良市内の高級住宅街で子ども向けの教室を開設。これが当たった。

 子どもたちの英語の成績が伸び、信頼を得るようになった一方、英語以外の成績が悪いと相談を受けるようになった。特別授業として、ほかの教科も教えるようになった。父と同じく、教えることが好きな自分に気付いた。

教育と寺院を融合

 自坊のことを考えるようになったのは、少僧都養成講座の同窓会「和合会」に参加していたから。寺院が地域に果たすべき役割や教えを伝えていくことの大切さを、仲間たちから学んだ。

 「なぜ寺には高齢者しか来ないのか。葬儀や法事ばかりでいいのか。本来は、人生のヒントや生きる糧を得られる場ではないのか」

 宗教離れの原因を考えるうち、現代の教育が、考える力を養えていないことに思い当たった。「解答方法を覚えることが中心で、目に見える効果だけを目的にしている」。目に見えないものを想像するためには、知性が必要との考えに至った。

 2015年4月、一念発起して「ならまち寺子屋学房」を開設した。コンセプトは「主体的に学ぶ姿勢を養う」。一般的な学習塾と異なり、寺子屋は教材を提供しない。学校やほかの学習塾の宿題を基に、課題を与える仕組みとした。

 短期的な成績アップを求められれば、一般の学習塾に通うことを勧める。「なぜ自分の答えが間違っているのか、理由を自分で追究してもらうことが大切。その理由に納得できたときに得られる喜びが、次の課題に向かう力になる」と、狙いを語る。

 寺子屋の開設と同時に、地蔵盆を復活させた。目に見えないものを想像する力を鍛えようと、紙芝居をしたり、法話を行ったり。将来は、セミナーや講演会など大人を対象にした寺子屋も開き、子ども向けと融合させる構想もある。

 知性を養った先には、何があるのか。森氏は言う。

 「人間は完璧ではない。自分が凡夫=用語解説=だと自覚することで、人を許せるし、寛容になる。その不完全さを認識するからこそ、阿弥陀さまの教えがありがたく感じられる」
         ◇
【用語解説】伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 浄土宗教師になるための道場。加行、加行道場ともいう。

【用語解説】凡夫(ぼんぶ=仏教全般)
 仏教の道理を理解しない者、あるいは世俗的な事柄にひたる俗人。

(文化時報2020年6月24日号から再構成)
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釜石の絆、神社に生かす 「弔いの神主」村上浩継さん

 坂本龍馬の葬儀を神道式で行ったことで知られる神社がある。京都市東山区の霊明神社。第9世神主の村上浩継氏(41)は、神社の葬儀「神道霊祭」を営む同神社の家系に生まれながら、東日本大震災の被災地に移住し、被災者と共に復興への道を歩んできた。〝弔いの神主〟は、神社の役割を見つめ直している。(大橋学修)

村上浩継(むらかみ・ひろつぐ) 1979年5月生まれ。滋賀県立大学大学院環境科学研究科の博士前期課程を満期退学した後、学校法人大和学園に就職。2014年から岩手県釜石市の臨時職員として就業するかたわら、地域振興を目指したボランティア活動を展開。19 年4月に京都に戻り、宗教法人神社本教を包括法人とする霊明神社の第9世神主に就任した。趣味は読書と映画鑑賞。独身。

震災後の無力感

 滋賀県立大学大学院で環境社会計画を専攻する傍ら、神職の資格を取得。満期退学後、調理師などの専門学校に就職し、マーケティング部門に配属された。広報活動や、高校の進路指導の教員らに情報提供する仕事で頭角を現し、部長職まで昇進した。

 2011年3月11日は、出張で出雲方面に向かっていた。気温が下がり、雪がちらつく悪天候。岡山県から山陰地方への峠越えは、ノーマルタイヤの社用車には過酷だった。坂道でスリップを繰り返し、死を覚悟した。

 なんとか出張先に到着し、遅めの昼食を取っているときに、ニュースで地震発生を知った。「こんな所にいる場合ではない」。大急ぎで自宅に引き返した。

 死を実感した日に震災が起きたことに、運命的なものを感じていた。ボランティアへの参加を切望したが、職場の多忙な業務から離れられない。ようやく条件が整ったのは、翌年の夏だった。

 訪れた宮城県南三陸町は当時、がれきがおおむね撤去されていたものの、復興は進んでいなかった。「数日間で帰らざるを得ないボランティア活動では、何もできない」。無力感が募った。

仮設住宅に転居

 「自分には、何ができるのか」。そう考えていたところに、岩手県釜石市役所が、広報部門で有期雇用の臨時職員を募集していることを知った。「自分には被災地と何のつながりもないが、広報なら今のスキルで支援できる」。両親の反対を押し切り、専門学校を退職した。

 転居先は、仮設住宅だった。被災者以外は住んでいなかった。市役所の上司ですら、溶け込めるかどうか心配したが、住民たちは「わざわざ復興のために来てくれてありがとう」と、温かく迎え入れてくれた。労働者が全国から集まる製鉄所のまちならではの寛容さだった。

 配属されたのは、広報部門ではなく、広聴係。職員の退職に伴い、配属先が変更されていた。窓口で市民の意見や要望を受け付けたり、担当部門へフィードバックしたりといった仕事が中心だった。それでも、広報紙やホームページに関連する業務に携わることができた。

 地域情報を発信するために市内各地を取材するうち、気付いたことがあった。「現地の活動が、外部に伝わっていない」。そういえば、震災からわずか1年後でも、京都市内で被災地の話題になることはめっきり減っていた。

 首都圏からボランティアで来た人が「釜石は元気がない」と話すことにも違和感があった。「東京と比べれば確かににぎやかではないが、小さいなりに活気のあるまち。地域のことが理解されていない」

 釜石は、東日本大震災の前にも、1896年の明治三陸地震や1933年の昭和三陸地震で津波に襲われ、太平洋戦争末期には米英から2度の艦砲射撃を受けた。人々には、甚大な被害を受けるたびに立ち上がる力強さがあった。

 地域の情報を、地域の人々が、地域の外に届けることが大切ではないのか。取材先で知り合った有志と共に、広報の勉強会を立ち上げた。

 こうした関わり合いが、京都に戻ってから新しいことを始めるヒントになった。釜石と京都、どちらの活動にも共通する原点は、「自分には何ができるのか」という飽くなき自問だった。

事業を始めたものの… 

 引き続き仮設住宅で暮らしながら、復興を目指して地域の情報発信に取り組んだ。大学院でワークショップの運営などを通じた市民の場づくりを研究したことや、前の勤務先でマーケティングを担当した経験を生かし、さまざまな人々と交流した。

 地元の人から、風光明媚な知られざる名所として、釜石市の尾崎半島を紹介された。「観光拠点として、地域活性化につなげられないだろうか」。トレッキングコースを整備する資金を捻出しようと、観光客に現地を案内する事業を始めた。

 だが、事業が軌道に乗りはじめた17年5月、尾崎半島で森林火災が発生した。鎮圧までに8日を要し、延焼面積は阪神甲子園球場107個分に相当する413㌶余りと、前年の全国の森林消失面積を上回る大規模な火災となった。

 観光開発は振り出しに戻ったが、めげることなく地元の森林組合と協力し、復旧に取り組むことにした。

釜石のため、京都へ

 市役所での雇用は3年が期限だったが、その後は1年ごとに更新できた。2度の延長を経て、6年目を前に退職を決めた。全国の自治体から派遣されていた職員が撤退する一方、業務量は減っておらず、市役所は多忙を極めていた。上司をはじめ、周囲からは一様に引き止められた。

 「自分がこのまま定住するなら、残ってもよかった。だが、いずれは神社のために京都に帰らなければならなかった。復興ではなく市役所の通常業務のために残るのは、地域の雇用を奪うことになると思った」

 19年4月に京都へ戻った。神主として祭事を行いながら、一般企業に就職することを考えた。「社会問題に関われる仕事はないだろうか。釜石にいた頃と同じぐらいの熱量で取り組めることはないか」

 釜石の仮設住宅は、ばらばらの地域から被災者が入居していた。住んでいた地域で祭事が行われる際は、神社に集まった。神社が地域社会を支える役割を果たし、心のよりどころとなっていた。

 「外に求めなくてもいい。足元に神社があるじゃないか」

〝ソーシャル神社〟を目指す

 霊明神社は、神道を信仰した村上都愷が、1809(文化6)年に創建した。寺請制度=用語解説=で統制された時代に、神社が弔いの儀式を営むことは難しかったが、全てを神に委ねるとする精神「惟神(かんながら)の道」を徹底するため、神道式の葬儀「神道葬祭」を始めた。

 霊明神社には、氏子がいない。坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの葬儀を行ったことで知られるものの、一般参拝者も少ない。ただ、「神道霊祭」を行うことから墓地を持っており、寺院の檀信徒に相当する「社中」が存在する。年忌法要に当たる「年霊祭」も行っている。

 ここからもっと、地域に開かれた神社になることはできないか。「霊明神社を、人々のよりどころにしたい。社会のために存在する〝ソーシャル神社〟にしたい」

 いろいろな人々が神社の座敷で思いを語れるイベント「霊明の縁むすび」を、毎月開催するようになった。最初は、知人を通じた参加者が主だったが、会員制交流サイト「フェイスブック」や神社のホームページで告知すると、これまで関わりのなかった人も集まるようになった。

 弔いの儀式を営むことも、人々のよりどころとして神社を位置付けることも、村上氏にとっては同じことなのだという。

 「祓うという行為には、二つの意味がある。一つは、未練を祓って神になること。もう一つは、残された人の悲しみを祓うこと」

 たとえ神道が死を穢けがれと捉えているとしても、弔いは必要だ。亡くした人が大切であればあるほど、悲しみやつらさは大きい。そして、神社は心のよりどころになる―。こうしたことも、釜石で学んできた。

 「神道にはできないとされてきた葬儀を行った神社だからこそ、できることはたくさんある。誰かの居場所になれるようにしたい」。弔いの神主の挑戦は、これからも続く。

【用語解説】寺請制度(てらうけせいど)
 江戸幕府の宗教政策で、キリシタンなど禁制宗派の信者でないことを、寺院に証明させた制度。葬祭を通じて檀那寺(だんなでら)と檀家(だんか)の関係を固定する「寺壇制度」の確立につながった。

(文化時報2020年6月17日号・20日号から再構成)
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