真宗教団連合公開講座 テーマ「是栴陀羅と差別問題について」

真宗教団連合公開講座

 

テーマ「是栴陀羅と差別問題について」

翻訳で差別意識混入の可能性も指摘

 

真宗教団連合同和委員会は10日、公開講座「是栴陀羅と差別問題について」を西本願寺聞法会館で開き、一般からも多数の聴講者が参加した。

浄土真宗の聖典の一つ『観無量寿経』には、インドの被差別民を意味する「旃陀羅」の言葉が記載されている。この用語の解釈を巡っては1922年に東西本願寺が全国水平社からの問題提起を受けて以来、教団の体質や教学の問題と絡んで宗門の課題として議論され続けているが、語の扱いについての大きな進展は見られない。

部落解放同盟広島県連合会と本願寺派とは2013年から6回の協議を重ね、6回目の協議では問題への見解としての回答書が提出され、是旃陀羅問題のテキスト『み教えと差別の現実』を発行した。しかし広島県連は「回答書を踏襲したテキストでは、是旃陀羅の語を必要な語として結論付けている。本願寺派内の内輪で『親鸞聖人は是旃陀羅をこのように受け止めた』と言ってみても、『是旃陀羅』が差別であるという客観的事実と、その差別が法要や経典などで日々拡散されている事実は何ら変わらない」と批判していた。

「経典拝読の基本姿勢を確立する」の講題で登壇した満井秀城浄土真宗本願寺派総合研究所副所長は、冒頭で「経典も文献としての制約を受ける。つまり仏典も聖典も読む側の立場によって受け取られ方が変わる。凡夫世間の常識で読み取っていると正しい読み方はできず、仏の大悲心が説かれた仏典は、仏の慈悲心で読み解くのが最も正確である」とした。

また、仏典の翻訳に際し、差別意識が混入する可能性のあることも指摘。「鳩摩羅什も玄奘もたった一人で経典を翻訳することはなく、国家プロジェクトとして教義班、言語班、文化班などのチームを組んで翻訳していた。当時の自国にない概念をどのように理解してもらえるかという場面で差別意識や差別用語が混入する余地があり、『大経』の『五悪段』がその典型例にあたる」と紹介した。

『観無量寿経』にある「是旃陀羅」は、王舎城の悲劇を扱った部分で、父を殺した阿闍世王が母をも殺そうとした時、「母を殺せば、旃陀羅と同じだ」と大臣がいさめた事柄として載っているが、その文脈を満井氏は改めて紹介。「旃陀羅が阿闍世に対して抑止効果を持ったということに大きな意味があり、その意味を問わなければならない。そこには釈尊の言説ではなく、当時のインド社会の哲学を集めた『毘陀論経』を説いていさめている。そのことも経典の中で出てくるが、『毘陀論経』の説は仏説からは異なっているということをどこかで明示しなければならない」と課題を示した。

また親鸞聖人の和讃に「是旃陀羅とはぢしめて」とある点をどう理解するのかに関し、満井氏は「『教行信証』の『信文類』に『涅槃経』の長文の引用があり、救いようのない極悪人の阿闍世が他力回向の信によって救いを得たことを自身に重ね合わせた言葉で、他者を差別する意図はなかった」との解釈も披歴した。

講義後、質問者からの「和讃で聖人が自身の問題として受け止めたという理解は難しい」との意見に、満井氏は「『唯信鈔文意』の中に“いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり”とある通り、当時の弱い立場の人たちを我らと受け止めており、また『涅槃経』の長文の引用からも、阿闍世に投げかけられた言葉を自身に投げかけられた言葉と受け止められたと想像する」と説明。

しかし質問者は、「『唯信鈔文意』に親鸞聖人の最晩年の心境を読み取ることはできるが、和讃を書いた時に果たしてその心境に立っていたかは疑問。二つの間には時間差があり、満井さんも変成男子の理解では、聖人が法華経にミスリードされたとも語っている。親鸞聖人は優れた方で、大変立派な布教者だったが、同時に道を求める求道者であった。苦悩の途中で語られた言葉を、全面的に肯定するような論理はいかがなものか」と指摘した。

満井氏は「和讃は77歳のころ、唯信鈔文意は79歳のころの著述。その2年の間に何もなかったとは言えないが、私はその2年間で何かあったとは思い及ばない。『教行信証』を書かれた50代、60代で教学体系が出来上がっているという思いがある」と答えた。

さらに被差別部落に生まれ、解放運動に取り組んでいる別の質問者は、「旃陀羅は文脈上から見ても明確に差別用語。その差別の強烈さは母親殺しを止めさせるほど。そして問題はインドの旃陀羅に対して、七高祖の一人である善導大師が禽獣のようなものだと言われ、多くの日本の高僧も『これは日本で言えば、えたやひにんのようなものだ』と言っていた事実を無視してはいけない。にもかかわらず、満井さんは『順彼仏願』や文脈を紹介して、親鸞聖人は差別するつもりはなかったと言い、最終的には必要な言葉だと結論付けているようにしか聞こえない」と不満を表し、満井氏は「指摘の通りで、善導大師でさえ歴史的制約とは全く無縁ではなかった。それは大きなことで、そこに私たちは向き合わなければならない。この論理によって是旃陀羅という言葉を放置しておいていいという考えは毛頭ない」との見解を示した。