『改革の流儀 真宗王国に生かされて』 熊谷宗惠氏(真宗大谷派元宗務総長)

『改革の流儀 真宗王国に生かされて』

熊谷宗惠氏(真宗大谷派元宗務総長)

 

40年間の議員人生を回顧

お東紛争から半世紀を経て

 

真宗大谷派の熊谷宗惠元宗務総長(金沢市・仰西寺前住職)が、40年にわたる宗議会議員生活を振り返った『改革の流儀 真宗王国に生かされて』を発刊した。一人の宗政家の人生を通して現代教団史をひもとき、今日の宗門的課題も浮き彫りにする一冊として注目される。

熊谷氏は教団問題の折、1977年に改革派として宗議会議員に初当選し、10期40年間務め、一昨年に勇退。2001年に宗議会議長、03年から5年半にわたり第40代宗務総長を務めた。

本書は第1章「座談会」、第2章「波乱万丈、わが人生」、第3章「北國新聞連載エッセーから」、第4章「聖徳太子を仰いだ親鸞聖人(法話)」からなる。

大谷派ではかつて、宗門の法主、宗教法人の代表たる管長、東本願寺の住職という三つを親鸞聖人の血脈を引く大谷光暢師が兼ねていたが、1969年に光暢師が内局の承認を得ないで管長職だけを長男の光紹氏に譲る開申事件が起こった。

この後、時の訓覇内局との対立が激しくなり、同朋会運動を推進する改革派と、大谷家や大谷家を擁護する保守派との宗門内の対立、いわゆるお東紛争が続くこととなる。

第1章「座談会」では、約50年前に京都の本山と金沢教務所でお東紛争の渦中に身を置いた経験のある元宗議会議員の佐竹通氏(能登教区・專勝寺)が司会を務め、熊谷氏を初出馬から支えた冨祐彬氏(金沢教区本正寺、鶴来別院輪番)と、春秋賛氏(金沢教区仙龍寺、元教区会議長)と共に、改革をテーマに語り合った。

座談会の中で、宗門の混乱のさなかに宗政に乗り出そうとした思いを熊谷氏は、「けしからん状態になっていることへの憤りでした。戦後日本では天皇が戦前の現人神から象徴天皇に大きく変わったのに、ここでは親鸞聖人直系の大谷氏が法主、本願寺住職、管長の三権を束ねて、大谷光暢法主と取り巻く人たちによる教団の専横がまかり通っていたのです。このままでは、大谷家と取り巻きに宗門が引きずられていく、けしからんと。それで立ち上がりました」と語っている。

熊谷氏が改革の基本に置いたのは、教団は大谷家のものではなく、門徒のものであるという考えだった。「これは、親鸞聖人が亡くなって10年後、京につくられた六角堂の廟堂と御墓所を、聖人の末娘の覚信尼さまが、大谷家のものでなく門信徒のものであるとおっしゃった精神に通じます」とも説明する。

座談会での話題は多岐にわたり、来年5月に迎える金沢教区の御遠忌を前に惹起した教区の宗派経常費未納問題や、現代の宗門的課題として月例会の先細りの現状を憂慮する声も挙がった。また宗祖750回御遠忌に向けた募財と計画遂行に、宗務総長として取り組んだ当時の思いも、熊谷氏は忌憚なく披歴している。

第2章では、熊谷氏の人生の足跡をつぶさに紹介した。小学1年生で迎えた終戦、大谷大学で西洋哲学を専攻し、金松賢諒教授の伏見の自坊に通ってギリシャ語を学んだこと。教学研究所では恩師となる蓬茨祖運所長との出会い、先輩だった桑門豪氏(後の九州大谷短大学長)からは学問や教育の大切さを教えられたこと。その頃、折しも教団の近代化を進める同朋会運動のうねりが巻き起こり、熊谷氏もテキスト作りの基盤に携わることとなった。そして教学研究所時代には、妻となる公子さんとの出会いがあったことなども記されている。

第3章では約5年にわたって地元紙『北國新聞』の「みちしるべ」欄につづったエッセーをまとめて収録。第4章では2017年9月に小松市本龍寺の聞法会で話した熊谷氏の法話を収録している。

北國新聞社出版局。定価1500円。