【オウム25年】悩みを救えない…宗教に足りないものは何か

 強制捜査から25年となるオウム真理教事件について、宗教の立場から何をどう考えればよいのか。宗教者と研究者が議論を重ねる「現代における宗教の役割研究会」(コルモス)は2019年12月、同志社大学今出川キャンパス(京都市上京区)で、第66回研究会議を開いた。テーマは「日常からの脱出/日常への帰還」。初の試みとして、シンポジウムを一般公開した。

 コルモスは1971年に第1回研究会議を開催。これまでに「宗教と政治」(75年)、「コンピューター時代と宗教」(82年)、「宗教とボランティア」(98年)、「自死・孤独死・安楽死」(2009年)など、社会課題をテーマに取り上げ、非公開で議論してきた。

 12月26日のシンポジウムでは、会長を務める大谷光真・浄土真宗本願寺派前門が「単なる実践でも抽象的な議論でもなく、より広い立場で宗教の問題を話し合いたい」とあいさつ。氣多雅子京都大学名誉教授は、オウム真理教にひかれた若者が救済や解脱 を求めたものの、昨今は〝救い〟が生きづらさや悩みに応答できなくなっている、と問題提起した。
 
 翌27日は従来通り非公開で意見交換。宗教者による実践の報告やワークショップ形式で討議が行われ、「居場所を失っているかのようにみえる若者に『戻ってこい』と言っても響かない」「痛い、つらいといった身体性を取り戻すことが大切」などの意見が出た。

オウム事件は「過去」でない

 新たな試みを始めたコルモスは、これからどこへ向かうのか。副会長の島薗進上智大学教授に聞いた。

――公開した経緯を教えてください。
 
 島薗「重要な文化問題を宗教者や研究者が論じているのに、社会に開かれていないのはもったいない。それに、研究会の趣旨に照らせば非公開は適切と言えないのではないか、という議論が以前からあった。インターネットの発達などメディア環境が激変したことも、公開する理由となった」

――オウム真理教事件について、コルモスとしてはどのような問題意識を持っていますか。
 
 島薗「若者と宗教の関わり方を見直し、どう関心を広げていけばいいのか。オウム真理教事件の風化が叫ばれる一方で、宗教テロは世界で大きな問題になっているし、攻撃的な宗教に関心を持つ若者も引き続き存在している。哲学や文明論とは異なり、宗教においてオウム真理教事件は過去のものになっていない。それをどう現代的に受け止めていくのか、という問題意識がある」

――今回の研究会議で、成果は ありましたか。
 
 島薗「中身の濃い話し合いができたと考えている。精神文化や思想の問題に関心を持つ人たちが、宗教の重要性を再認識する場になる可能性が、コルモスにはある。宗教教団の現実的な面と、社会に訴えかける面のバランスを取りながら、引き続き問題提起をしていきたい」

力による排除、敵意を増幅

 シンポジウムでは3人が登壇した。
 内藤正典同志社大学教授は「イスラームを力で押さえ込むことの無意味さ」と題し、次のように語った。

 欧州では2015年、シリアやイラクなどからドイツを目指す難民が殺到し、未曾有の難民危機が起きた。排斥の動きは強まり、イスラームへの嫌悪感も押しとどめることのできないレベルまで達した。
 
 イスラーム嫌悪が「差別ではない」という言説まで流布している。フランスは公共の場に宗教を持ち込まない世俗主義の観点から、ドイツはキリスト教国であるという観 点から、それぞれそのような潮流が生まれた。欧州の共通価値を守るものとして外国人排斥が正当化されてしまい、異質なものへの寛容な精神が機能しなくなっている。
 
 ムスリムは難民・移民の第2世代の方が欧州社会に同化しておらず、信仰に基づいて生きている。楽に生きられる、という感覚があるからだ。救いを求める観念は希薄だが、一方で現世がつらければつらいほど、来世に喜びを見出したいと望む。
 
 そこに、「テロによって来世が保障される」という誤った信仰の知識が、ネットを通じて教唆・先導されるようになった。
 
 欧州のイスラーム嫌悪だけでなく、イスラーム圏の統治者たちの堕落と腐敗もまた、静かで深い怒りを引き起こし、暴走する若者を生んでいる。
 
 欧州が内なるムスリムを異化・排除しようとしても、イスラームには国境や国民の概念がない。圧力で啓蒙を試みても、聖俗分離の観念がないから通じない。根本のパラダイムが違うことを了解しなければ、共生・共存は困難であり、力で排除しようとすれば敵意を増幅させるだけだ。

宗教を否定しても、自由は奪われる

 続いて、社会学者の大澤真幸氏が「現代社会において宗教は(どう)役に立つのか」をテーマに講演した。

 「宗教的なイリュージョンにだまされまいとする人は、むしろ誤ることになる」と、ラカンは言った。人間はある意味、宗教にだまされなければならない。
 
 近代資本主義の精神は、プロテスタントにおける一神教の論理を純化させて生まれたが、資本主義ほど宗教の価値をおとしめるものはなかった。神が存在しなければ「全てが許される」と考えるのではなく、「何もかもが許されない」と考えた方が、現代社会の問題を捉えやすい。

 エンデの寓話「自由の牢獄」にみられるように、自由の過剰さは、逆に人間から自由を奪う。

 ネット通販で買い物をすると、ビッグデータを分析して別の商品を勧められる。元々は欲しくなくても、客観的に欲すべきだと言われると、元から欲しかったような気になる。だが、宗教は人生の意味を与えてくれるが、〝データ教〟と言うべきビッグデータを分析するアルゴリズム(計算手順)への信仰は、選択肢を示すだけで意味を与えてくれない。
 
 すべての宗教を否定しても、自由や生きる意味は奪われる。宗教を方便として活用したところで、役に立つから信じるだけであって、資本主義のメカニズムを受け入れることに変わりない。宗教を一つの真理として、まじめに信じるべきではなかろうか。
 
 それこそが、宗教から解放されるための道でもある。宗教の一貫性を徹底して追求すれば逆に矛盾を導き出すことができ、宗教を内側から乗り越えられるからだ。

例外が日常となる絶望

 最後に登壇したのは、杉村靖彦京都大学教授。「『ここにいる』ことの絶望的な困難-『宗教哲学』からの考察」と題し、持論を述べた。

 今日の「宗教哲学」の観点からは、魂の救済や解脱よりも居場所のなさが問題となる理由が見えてくる。表面上は問いが薄く軽くなっているように見えるが、居場所は人間の頼みの綱であり、最後のセーフティーネット。それなしに生きることを強いられることは、生理的な恐怖心を喚起する。

 「いる」ことは、場所とは切り離せない。「ある」との大きな違いだ。ハイデガーと西田幾多郎は、哲学における絶対的原理や宗教における彼岸的超越を、「ここにいる」 ことの参照軸とすることを断念した。その上で、常に「いなくなる」こと、すなわち死と裏表であることの自覚に活路を見出そうとした。
 
 ところが、アウシュビッツとヒロシマにおける大量殺戮は、死や悪の極限であると同時に、死や悪を否定的なものとして自覚する可能性すら奪った。今日まで、そうした例外が日常となってきた。
 
 死に得る可能性が剝奪され、自覚されなくなって脱落する。居場所不全、つまり「どこにもいない」という若者の感覚は、軽薄さや無思慮ではなく、そうした生理的な不全感 の現れと言えるだろう。

 「いる」という感覚が脱落するほど、人は居場所を欲する。一方で合わせ鏡として、集団の圧力が強まり、個々の人間を押しつぶそうとする。このような状況を表現する言葉の断片をすくい取り、拾い集めていくこと。そこにこそ、全てをそもそもから問う哲学と、苦と願いに徹底して寄り添う宗教が、それぞれの持ち場で引き受けていくべき課題があるのではないか。

(文化時報2020年1月11日号から再構成)
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