オウム25年①問われる信教の自由 小原克博氏(同志社大学)

※2020年3月に行ったインタビュー連載を再構成しました。

 日本宗教史上例を見ない無差別大量殺人を犯したオウム真理教。教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら教団幹部13人の死刑が2018年に執行され、事件は平成のうちに幕を下ろしたかに見えるが、宗教界には解決できていない課題が依然残る。オウム事件とは何だったのか。警察の強制捜査から25年を迎えた今年、宗教者や宗教学者のインタビューを通して、改めて考えたい。

小原克博(こはら・かつひろ)1965年、大阪生まれ。同志社大学大学院神学研究科博士課程修了。現在は同志社大学神学部教授、良心学研究センター長。専門はキリスト教思想、宗教倫理学、一神教研究。著書に『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』(日本実業出版社、2018年)などがある。

伝統教団が宗教教育を行うべきだ

 《小原克博同志社大学教授は、宗教者と研究者らでつくる「現代における宗教の役割研究会」(コルモス)のメンバーとして、ここ数年、オウム真理教事件をテーマに議論を重ねている。今回は「宗教リテラシー」を養う重要性を尋ねた》

――オウム真理教は、宗教と呼べるのでしょうか。

 「事件前からオウム真理教をおかしいとみていた宗教学者もいたが、ユニークだとして賛辞を贈った学者もいた。良い宗教と悪い宗教の境界線は、簡単に引けない。『無条件で非難しても構わない』という思考停止に陥らないためにも、異質な宗教を安易にカルトと断定することは避けねばならない」

――どうすれば良い宗教と悪い宗教を見分けられるのでしょうか。
 
 「ドメスティックバイオレンス(DV、夫婦や内縁者間の暴力)と似ているのだが、支配構造に入って洗脳されると『助けて』とすら言えなくなる。入る前に『この宗教はおかしいかもしれない』というセンサーを働かせることが大切だ。そのためには、宗教の基本を理解する『宗教リテラシー』が必要になる」

――「宗教リテラシー」を習得するのは、容易ではないように思えます。

 「戦後世代は公教育の中で宗教とは何かを教えられておらず、老いも若きも無知に等しい。現代社会で宗教教育が直接できるのは、伝統教団だ。戦前の日本人なら、お寺の日曜学校でお経を学んだり仏教唱歌を歌ったりすることで、子どもの頃から体得できた」

 《日本国憲法20条3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」との定めがある》

 「伝統教団にとっては、まずは自分たちの檀家や信者になってほしい、という切羽詰まった危機感はあると思う。それはわかるが、自分たちの信仰や教えを中心としながらも、広い視点で宗教とは何かを考えられるようにしてほしい。『宗教リテラシー』は、単なる知識ではない。信教の自由の大切さを納得できる教育が欠かせない」

荒唐無稽な宗教でも尊重する

 《事件当時、オウム真理教の幹部は「日本の寺は風景でしかなかった」と語った。その言葉に、伝統仏教教団の僧侶たちは衝撃を受けたと言われている》

――伝統教団は当時、オウム真理教を面と向かって批判していませんでした。なぜ見過ごしたのでしょうか。

 「端的に言えば、自分たちに関係ないと思っていた。縄張りを荒らされたら困るが、変わった宗教が妙な教祖の下でヨガをやっているだけならいいだろう、と静観していた。自分たちを正しいと思い込むだけで、積極的な批判や質問をしてこなかった」

――そうした態度が、オウム真理教の暴走を生んだと考えられませんか。

 「佐々木閑花園大学教授が指摘しているが、初期仏教のサンガには、修行のための厳格な『律』があった。もし麻原元死刑囚が『律』の重要性を理解していたら、不殺生戒を破る殺人は犯さなかっただろうし、ポアという言葉を簡単には使わなかったはずだ」

 「オウム真理教の唯一のルールブックは、麻原元死刑囚だった。『律』がないゆえに、自分たちの欲望や思いが暴走しても、止める仕組みがなかった」

――麻原元死刑囚の説く教えに引かれた若者もいました。

 「いつの時代にも、世の中の理屈や論理に満足できず、別の秩序や非日常的な世界に何かを求める人はいる。オウム真理教の幹部の多くは、最高の教育を受けて医師や弁護士などになっても、日常のレールを走り続けることに疑問を感じ、違う世界に飛び込んだ」

 「社会常識が分かっていない、と言って宗教を批判しても意味がない。常識では測れないものを求めてきた人たちの集団が、宗教教団だからだ」

――われわれにも奇異な目で見ない寛容性が必要だった、ということでしょうか。

 「いかに荒唐無稽で理解しがたい宗教でも尊重しなければならない、というのが、信教の自由における基本的な考え方。宗教戦争で体得した欧州と異なり、日本にはその大切さに気付く経験が乏しかった」

死刑執行、宗教界は無視するな

 《公安調査庁は1996年7月、破壊活動防止法に基づくオウム真理教の解散指定処分請求を公安審査委員会に行った。公安審査委は97年1月、請求を棄却。オウムは破防法の適用を免れた》

――破防法適用の是非を巡っては当時、信教の自由がテーマの一つになりました。
 
 「破防法を適用すべきだという意見が強かった当時、議論を積み上げ、簡単に宗教団体をつぶさないと決断したことは、正しかった」

 「日本には戦争の教訓がある。キリスト教や大本などは、秩序に反するとみられるや否や、国家につぶされてきた。国家権力が宗教団体の破壊や停止に関わったという戦時下の苦い記憶が生かされたと言える」

 《一連のオウム事件では、麻原元死刑囚を含む教団幹部13人の死刑が執行され、改めて死刑を巡る議論が起きた》

――麻原元死刑囚を除く幹部を死刑にしてよかったのかという疑問や、麻原元死刑囚自身を死刑にすべきだったのかという議論もあります。

 「死刑制度に対する檀家や信者の賛否は真っ二つに分かれる。仏教徒だからと言って、死刑に反対する人が極端に多いわけではない。だから各教団の意見がまとまりにくく、仏教界が一枚岩にならない」

 「だが、白黒はっきりさせなくても、死刑に関する議論はしなければならない。オウム事件の死刑執行を宗教界は無視すべきではない。国家が生殺与奪の権を握るという死刑制度を維持していいのか、宗教教団がそれを放任していていいのか、という問いが突き付けられている」
 

          ◇
 小原克博(こはら・かつひろ)1965年、大阪生まれ。同志社大学大学院神学研究科博士課程修了。現在は同志社大学神学部教授、良心学研究センター長。専門はキリスト教思想、宗教倫理学、一神教研究。著書に『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』(日本実業出版社、2018年)などがある。
           ◇
【用語解説】オウム真理教事件
 1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件、94年の松本サリン事件、95年の地下鉄サリン事件など、オウム真理教が引き起こした数々の凶悪事件の総称。地下鉄サリン事件では、幹部らが東京都内の地下鉄5列車の車内で猛毒のサリンを散布し、乗客や駅員ら13人が死亡、6千人以上が重軽傷を負った。一連の裁判では、麻原元死刑囚の指示を受けた幹部や信者らが、教団を批判する人たちを襲い、強制捜査を阻止しようと無差別テロを起こしたと認定された。

(文化時報2020年3月7日号から再構成)
(購読のお申し込みは0800-600-2668またはお問い合わせフォーム