父の事故死、コロナ禍に重ね 浄土宗常楽寺・浦上住職

 「感染者だからと言って、誰にも見送られず火葬場に行くことがあってはならない。より丁寧な葬儀をしたい」。浄土宗常楽寺(兵庫県尼崎市)の浦上博隆住職(66)がそう語るのには、理由がある。15歳のとき、父を交通事故で亡くした。その体験を、新型コロナウイルス感染症で近親者を亡くした遺族に重ね、葬儀の大切さを説く。「現代人は、目に見えるものしか信用しない傾向にある。だからこそ、思いを説かなければならない」と語る。(大橋学修)

「感染者に丁寧な葬儀を」と話す浄土宗常楽寺の浦上博隆住職


お迎えを実感

 常楽寺は、1504(永正元)年に創建された。尼崎城築城の際に現在地に移されたが、太平洋戦争の空襲で全焼。焼け野原から廃材を集めて建てたバラックの寺院で、浦上氏は生まれ育った。「ボロボロの穴だらけで、雨が降ると屋根の波板がバラバラと音をたてた。阿弥陀さんの三方に金の紙を貼っただけの貧乏な寺だった」

 1966年に寺を再建した父は、その数年後に逝去した。バイクを運転中、出合い頭の事故に遭った。手術は行ったが、手の施しようのない状態だった。「なんでこんなことに」。浦上氏が中学3年の時だった。

 2日後に息を引き取る直前、父がいびきをかき始めた。折しも、窓から差し込んだ西日が体全体を覆い始めた。お迎えが来たと感じた。「阿弥陀さんにすがるしかない。楽に浄土へ旅立ってほしい」という悲痛な心が救われた。

 父の代わりに、関係寺院の住職だった故貴田徹善師が常楽寺を護持し、青年期を過ごした。スタジオミュージシャンを夢見ていたが、さまざまな人々の支えを胸に、僧侶になることを決めた。

 父から、読経の指導を受けたことはなかった。唯一の思い出は中学1年の時、お盆の棚経に連れていかれた記憶。口伝する陀羅尼=用語解説=を、母が聞き取って経本に書き留めてくれていた。後ろ姿を見て倣えという姿勢だった。

大病を患って

 伝宗伝戒道場=用語解説=を終えて住職になると、30歳ごろで「説教の天才」と呼ばれた故伊藤教導師に見込まれた。「布教師にならないか」。そう声を掛けられたが、父が再建した安普請の本堂と庫裏をもう一度建て直すなど、30代は法務に振り回される毎日だった。

 42歳になり、大病を患った。左耳からウイルスが入り、脳に達しかかって入院。顔の左半分がまひし、命が危ぶまれた。何とか一命をとりとめて退院し、本堂でお勤めをしていたとき、阿弥陀仏が両手を広げて近づいてくるのを感じた。涙が出た。「頂いた命だと思った。その命を生かすために、何かできないか」。布教師になることを決めた。

 総本山知恩院布教師会の試験を通過したのは、法然上人が開宗した年齢と同じ43歳のとき。以降は、布教師の道を突き進んだ。

念仏から安寧へ

 近年の社会を見て思うことがある。「寺院は檀信徒のものなのに、住職のものと捉えられるようになった。われわれがちゃんと説明しておくべきだった」。寺院へのイメージや、宗教に対する考え方が変わりゆく状況を「大河の流れのよう」と表現し、激しくはなくてもあらがえない力があると感じている。

 新型コロナウイルス感染症で亡くなった人の葬儀については、人一倍憂慮している。「遺族の心が救われるように、丁寧に行うことが大切。ましてや、亡くなった方を物のように扱うのはやりきれない。できることとできないことがあったとしても、せめて普通に営んでほしい」

 葬儀が簡素化されれば、信仰心が希薄になってしまう。父を送ったあのときの経験を持つ者として、伝えたい思いがある。

 例えば、「不殺生戒=用語解説=を破らなければ生きられない自分であっても、往生浄土を得る」ということ。日々の念仏の中から、こうした教えを感じ取ることが、社会の安寧や安心感につながるのだという。

 「この世に迎合することになるかもしれないが、世間の人々がファンになってくれるような僧侶でなくてはならない」。自らをそう戒める。大切なことを、伝え続けるために。
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【用語解説】
 陀羅尼(だらに=仏教全般)
 サンスクリット語の「ダーラニー」の音写。記憶する力、保持する力という意味から、呪文の意味として使われるようになった。

 伝宗伝戒道場(でんしゅうでんかいどうじょう=浄土宗)
 僧階を持つ僧侶になるための道場。「加行」「加行道場」とも言う。

 不殺生戒(ふせっしょうかい=仏教全般)
 生き物を故意に殺してはならないという戒。仏教徒が守るべき五戒の一つ。

(文化時報2020年5月13日号から再構成)
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