釜石の絆、神社に生かす 「弔いの神主」村上浩継さん

 坂本龍馬の葬儀を神道式で行ったことで知られる神社がある。京都市東山区の霊明神社。第9世神主の村上浩継氏(41)は、神社の葬儀「神道霊祭」を営む同神社の家系に生まれながら、東日本大震災の被災地に移住し、被災者と共に復興への道を歩んできた。〝弔いの神主〟は、神社の役割を見つめ直している。(大橋学修)

村上浩継(むらかみ・ひろつぐ) 1979年5月生まれ。滋賀県立大学大学院環境科学研究科の博士前期課程を満期退学した後、学校法人大和学園に就職。2014年から岩手県釜石市の臨時職員として就業するかたわら、地域振興を目指したボランティア活動を展開。19 年4月に京都に戻り、宗教法人神社本教を包括法人とする霊明神社の第9世神主に就任した。趣味は読書と映画鑑賞。独身。

震災後の無力感

 滋賀県立大学大学院で環境社会計画を専攻する傍ら、神職の資格を取得。満期退学後、調理師などの専門学校に就職し、マーケティング部門に配属された。広報活動や、高校の進路指導の教員らに情報提供する仕事で頭角を現し、部長職まで昇進した。

 2011年3月11日は、出張で出雲方面に向かっていた。気温が下がり、雪がちらつく悪天候。岡山県から山陰地方への峠越えは、ノーマルタイヤの社用車には過酷だった。坂道でスリップを繰り返し、死を覚悟した。

 なんとか出張先に到着し、遅めの昼食を取っているときに、ニュースで地震発生を知った。「こんな所にいる場合ではない」。大急ぎで自宅に引き返した。

 死を実感した日に震災が起きたことに、運命的なものを感じていた。ボランティアへの参加を切望したが、職場の多忙な業務から離れられない。ようやく条件が整ったのは、翌年の夏だった。

 訪れた宮城県南三陸町は当時、がれきがおおむね撤去されていたものの、復興は進んでいなかった。「数日間で帰らざるを得ないボランティア活動では、何もできない」。無力感が募った。

仮設住宅に転居

 「自分には、何ができるのか」。そう考えていたところに、岩手県釜石市役所が、広報部門で有期雇用の臨時職員を募集していることを知った。「自分には被災地と何のつながりもないが、広報なら今のスキルで支援できる」。両親の反対を押し切り、専門学校を退職した。

 転居先は、仮設住宅だった。被災者以外は住んでいなかった。市役所の上司ですら、溶け込めるかどうか心配したが、住民たちは「わざわざ復興のために来てくれてありがとう」と、温かく迎え入れてくれた。労働者が全国から集まる製鉄所のまちならではの寛容さだった。

 配属されたのは、広報部門ではなく、広聴係。職員の退職に伴い、配属先が変更されていた。窓口で市民の意見や要望を受け付けたり、担当部門へフィードバックしたりといった仕事が中心だった。それでも、広報紙やホームページに関連する業務に携わることができた。

 地域情報を発信するために市内各地を取材するうち、気付いたことがあった。「現地の活動が、外部に伝わっていない」。そういえば、震災からわずか1年後でも、京都市内で被災地の話題になることはめっきり減っていた。

 首都圏からボランティアで来た人が「釜石は元気がない」と話すことにも違和感があった。「東京と比べれば確かににぎやかではないが、小さいなりに活気のあるまち。地域のことが理解されていない」

 釜石は、東日本大震災の前にも、1896年の明治三陸地震や1933年の昭和三陸地震で津波に襲われ、太平洋戦争末期には米英から2度の艦砲射撃を受けた。人々には、甚大な被害を受けるたびに立ち上がる力強さがあった。

 地域の情報を、地域の人々が、地域の外に届けることが大切ではないのか。取材先で知り合った有志と共に、広報の勉強会を立ち上げた。

 こうした関わり合いが、京都に戻ってから新しいことを始めるヒントになった。釜石と京都、どちらの活動にも共通する原点は、「自分には何ができるのか」という飽くなき自問だった。

事業を始めたものの… 

 引き続き仮設住宅で暮らしながら、復興を目指して地域の情報発信に取り組んだ。大学院でワークショップの運営などを通じた市民の場づくりを研究したことや、前の勤務先でマーケティングを担当した経験を生かし、さまざまな人々と交流した。

 地元の人から、風光明媚な知られざる名所として、釜石市の尾崎半島を紹介された。「観光拠点として、地域活性化につなげられないだろうか」。トレッキングコースを整備する資金を捻出しようと、観光客に現地を案内する事業を始めた。

 だが、事業が軌道に乗りはじめた17年5月、尾崎半島で森林火災が発生した。鎮圧までに8日を要し、延焼面積は阪神甲子園球場107個分に相当する413㌶余りと、前年の全国の森林消失面積を上回る大規模な火災となった。

 観光開発は振り出しに戻ったが、めげることなく地元の森林組合と協力し、復旧に取り組むことにした。

釜石のため、京都へ

 市役所での雇用は3年が期限だったが、その後は1年ごとに更新できた。2度の延長を経て、6年目を前に退職を決めた。全国の自治体から派遣されていた職員が撤退する一方、業務量は減っておらず、市役所は多忙を極めていた。上司をはじめ、周囲からは一様に引き止められた。

 「自分がこのまま定住するなら、残ってもよかった。だが、いずれは神社のために京都に帰らなければならなかった。復興ではなく市役所の通常業務のために残るのは、地域の雇用を奪うことになると思った」

 19年4月に京都へ戻った。神主として祭事を行いながら、一般企業に就職することを考えた。「社会問題に関われる仕事はないだろうか。釜石にいた頃と同じぐらいの熱量で取り組めることはないか」

 釜石の仮設住宅は、ばらばらの地域から被災者が入居していた。住んでいた地域で祭事が行われる際は、神社に集まった。神社が地域社会を支える役割を果たし、心のよりどころとなっていた。

 「外に求めなくてもいい。足元に神社があるじゃないか」

〝ソーシャル神社〟を目指す

 霊明神社は、神道を信仰した村上都愷が、1809(文化6)年に創建した。寺請制度=用語解説=で統制された時代に、神社が弔いの儀式を営むことは難しかったが、全てを神に委ねるとする精神「惟神(かんながら)の道」を徹底するため、神道式の葬儀「神道葬祭」を始めた。

 霊明神社には、氏子がいない。坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの葬儀を行ったことで知られるものの、一般参拝者も少ない。ただ、「神道霊祭」を行うことから墓地を持っており、寺院の檀信徒に相当する「社中」が存在する。年忌法要に当たる「年霊祭」も行っている。

 ここからもっと、地域に開かれた神社になることはできないか。「霊明神社を、人々のよりどころにしたい。社会のために存在する〝ソーシャル神社〟にしたい」

 いろいろな人々が神社の座敷で思いを語れるイベント「霊明の縁むすび」を、毎月開催するようになった。最初は、知人を通じた参加者が主だったが、会員制交流サイト「フェイスブック」や神社のホームページで告知すると、これまで関わりのなかった人も集まるようになった。

 弔いの儀式を営むことも、人々のよりどころとして神社を位置付けることも、村上氏にとっては同じことなのだという。

 「祓うという行為には、二つの意味がある。一つは、未練を祓って神になること。もう一つは、残された人の悲しみを祓うこと」

 たとえ神道が死を穢けがれと捉えているとしても、弔いは必要だ。亡くした人が大切であればあるほど、悲しみやつらさは大きい。そして、神社は心のよりどころになる―。こうしたことも、釜石で学んできた。

 「神道にはできないとされてきた葬儀を行った神社だからこそ、できることはたくさんある。誰かの居場所になれるようにしたい」。弔いの神主の挑戦は、これからも続く。

【用語解説】寺請制度(てらうけせいど)
 江戸幕府の宗教政策で、キリシタンなど禁制宗派の信者でないことを、寺院に証明させた制度。葬祭を通じて檀那寺(だんなでら)と檀家(だんか)の関係を固定する「寺壇制度」の確立につながった。

(文化時報2020年6月17日号・20日号から再構成)
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