【取材ノートから】人とつながることの意味 安岡遥

 新型コロナウイルスによる国内初の死亡者が確認されて間もない2月下旬、私は本紙記者への転職を機に、福岡県の実家から京都市へ移り住んだ。京都へ向かう新幹線の乗客は一様にマスク姿で、感染への懸念からか会話もまばらだった。同じように振る舞いながらも、その光景を少々異様に感じたことを覚えている。

 だが今では、外出時のマスク着用は当たり前。入社したばかりの職場でも、早々に在宅勤務が呼び掛けられ、電話やテレビ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じた取材が増えた。「人とのつながりがなくなっても、案外生きていけるものだ」。ふと、そんな思いが湧く瞬間があった。

 考えを改めるきっかけとなったのは、「Zoom」を利用して法要の配信を行う群馬県太田市の曹洞宗寺院、瑞岩寺への取材だった。

 住職は、「大切な法要に、感染を心配せず参加してほしい」との思いから「Zoom」による配信を提案する一方、「悲しみを癒やすという点では、対面での法要に及ばない」と強調した。

 「花や線香を買ってお寺に足を運び、故人を知る人同士で思い出を分かち合う。そうした営みの中で、人は死別の悲しみを癒やしていくものだ」。その言葉を聞いて、思い出す光景があった。

 私は3年前、5歳年上のいとこを登山中の事故で亡くしている。生前の彼とは挨拶を交わす程度の間柄で、会話らしい会話をした記憶はほとんどなかった。唐突に死を知らされ、「なぜ、もっと話しておかなかったのか」と後悔が残った。

 年忌法要で親族が集まるたび、叔母は彼の思い出を語り、涙を流す。子どもの頃の笑い話が、いつの間にか涙に変わっていく。その姿を見るのはつらかったが、他者と悲しみを共有するこうしたひとときが、グリーフ(悲嘆)ケアにつながっていたのではないかと思い当たった。

 コロナ禍の今、「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」を合言葉に、葬儀や法要が縮小されつつある。感染症で亡くなった故人と、最期の対面すら果たせなかった遺族もいる。こうした傾向が、寺院消滅に拍車を掛けるのではないかと懸念する宗教者は多い。

 だが、死や別れを誰もが意識せざるを得ない今だからこそ、他者と関わることに意味があるのではないだろうか。「宗教を必要としない世界の方が、実は幸せなのかもしれない。それでも人が宗教を求めるのは、大切な人を亡くす悲しみに耐えられないからだ」。そう語り、遺族らのつながりを模索する瑞岩寺住職の姿に、人との縁を見つめ直す機会をいただいた。

(文化時報2020年6月27日号から再構成)
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