差別と地震、悲嘆は同じ 浄土宗・静永秀明氏

 悲嘆(グリーフ)を抱える人々に対し、「私たち仏教者は、スポンジのような役割を果たすべきだ」と語るのは、浄土宗金龍院(滋賀県甲賀市)の静永秀明住職(51)。浄土宗宗務庁の人権担当部署で勤務した経験が長く、阪神・淡路大震災と東日本大震災の被災地に行った経験からくる言葉だ。サラリーマンだった父が突然出家し、図らずも僧侶を志すことになった静永氏は「差別で苦しむ人も、大切な人を亡くした人にも、向き合う姿勢は同じ」と考えている。(大橋学修)

浄土宗金龍院の静永秀明住職。後ろの掛け軸は藤井門跡の染筆

父と私、出家の覚悟

 父は一般企業の管理職。公立の施設で結婚式の運営や食事の提供を請け負っていた。自身は小中学生の頃、旧国鉄の車掌長が身に着ける白い制服に憧れ、鉄道マンになることを夢見ていた。

 転機が訪れたのは、中学3年の時。当時48歳だった父が、突然出家すると言い出した。

 父は、極楽寺(奈良県葛城市)の住職の次男。跡継ぎは伯父だった。ところが金龍院の代務住職を務めるようになり、奈良県と滋賀県の2カ寺を掛け持ちすることが負担だった。そこで、父に白羽の矢が立ったという。

 父が転身を宣言したのは、当時住んでいた兵庫県西宮市の高校に入学願書を出した直後。「そんな話、聞いたこともない」と戸惑った。それでも、父が会社に提出する退職願をしたためる後ろ姿を見て、自分自身も将来は僧侶になる覚悟を固めた。

 父は金龍院の住職になり、自分は母方の祖母宅から西宮市の高校に通った。

上から目線ではダメ

 1988(昭和63)年に佛教大学に入学。大本山くろ谷金戒光明寺に設けられた学寮で修行しながら通学した。長らく在家として生活してきたため、数珠の掛け方など基本的な所作さえ知らなかった。3年生になる直前、総本山知恩院の藤井實應門跡(1898~1992)に仕える伴僧員に誘われ、少しでも僧侶の知識を身に付けようと、知恩院で奉職しながら大学に通うことを決めた。

 想像した以上に厳しい毎日だった。「こんな所、すぐにでも辞めてやる」。ただ、3カ月もすると藤井門跡との生活の中で多くの学びが得られることを実感し、退山する気持ちがなくなった。

 卒業後は浄土宗宗務庁に入り、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」の事務局に配属された。大学時代に故仲田直教授が講義で「浄土宗を背負っていくお前たちが、同和問題に一生懸命に取り組まないと、この問題は解決しない」と言っていたことを思い出した。

 当時は、差別戒名問題=用語解説=が解決していない時代。不当な差別に苦しむ人々を見て、それぞれの違いを認め、お互いを尊重することの重みを感じた。差別事象が発見されるたびに、人権団体への対応を迫られ、学びを深めた。

 「自分は当事者になれないが、寄り添う努力は必要だ。苦しむ人に手を差し伸べるという上から目線ではなく、そばにいて、空気のような存在でなければならない」と語る。

二つの震災と無力感

 仕事に慣れてきた1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。翌18日、故郷の西宮市に向かった。にぎやかだった街は静まりかえり、聞こえるのはサイレンの音だけ。砂ぼこりにまみれた空気の中で、恐怖におののいた。上司から命じられて市内を自転車で巡り、被災寺院の調査に取り組んだ。何もできない自分の無力さを感じた。
 
 16年後、今度は東日本大震災が起きた。居ても立ってもいられない気持ちだったが、業務があって駆け付けることができない。人権啓発で縁のできた西光寺(宮城県石巻市)の樋口伸生副住職を通じ、必要物資を送った。ようやく足を運べたのは、西光寺での百箇日法要だった。「できることは限られている」。そう感じた。

 その後は、西光寺で営む遺族の集い「蓮の会」に参加するようになった。最初は「気を遣わねば」との思いが強かったが、口にしてはならない言葉さえ話さなければ、普段通りに振る舞う方が良いことに気付いた。

 阪神・淡路大震災では、西宮の街が復興する姿を見届けた。石巻市でも毎年3月、西光寺の2階から〝定点観測〟をしている。

 「建物が再建されても、人の心が戻らないと復興とは言えない。被災地にいれば、どうしても気がめいる。だから、お茶を飲みながら普通に話をして、心の中の重たいものを僕らが受け止めることが大切」

 そして、悲嘆を吸収していく。スポンジのように。
       ◇
【用語解説】差別戒名問題(仏教全般)
 平等思想を貫くべき仏教を信奉しているにも関わらず、被差別部落出身者の故人に、侮蔑的な文字を用いるなど、特殊な戒名を付けていた問題。

(文化時報2020年8月19日号から再構成)
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