「迎合せず、関われ」武道家兼僧侶が語る仏教の〝型〟

 岐阜県高山市の浄土宗大雄寺(だいおうじ)住職、田中玄恵氏(53)は、僧侶でありながら武道家でもある。拳法「太道(たいどう)」の師範として、道場長を務めるほどの腕前だ。同じ動きを繰り返して体に染み込ませ、僧侶としても修行を重ねる。目指すのは、聖なる空気を身にまとうこと。「社会の人々は、不安定な世の中においても、和尚と寺だけは違う雰囲気であってほしいと願っている。聖性がなければならない」と語る。(大橋学修)

田中玄恵(たなか・げんえ) 1967年2月生まれ。97年から浄土宗大雄寺住職。拳法「太道」師範。1997年から同寺住職。大本山くろ谷金戒光明寺の布教師会副会長として、後進の指導にも当たる。趣味はギターの弾き語りで、長渕剛の「乾杯」が得意曲。家族は4人と犬1匹。

厳しい修行を求めて

 生まれ育った大雄寺は、市街地にほど近い東山寺院群の一角にある。同級生には寺院子弟が多く、周囲からは僧侶になることが当然と見なされ、自身も疑いを持たなかった。ただ、武道に憧れて、柔道や空手、少林寺拳法などさまざまな道場に通い詰める青少年時代を送った。

 浄土宗の僧侶になるための大学には、大正大学(東京都豊島区)と佛教大学(京都市北区)がある。進学先に選んだのは、佛教大学。武道の聖地とされる武徳殿=用語解説=が、京都にあったからだ。友人や先輩から聞きかじった禅宗の僧堂のようなイメージを膨らませ、相応の覚悟を決めて入学した。

 進学した1980年代、1年生は大本山くろ谷金戒光明寺の学寮で暮らさなければならなかった。ところが自分が求めていたほどの厳しさはなく、ならば武道で自らを鍛えようと、京都市内の道場を渡り歩いた。

 カルチャースクールのような道場は、自分には必要ない。武道の精神を継承し続ける所に行きたい―。そうして巡り合ったのが、少林寺拳法の流れをくむ拳法「太道」。自分が求めた厳格な世界があった。大学卒業後には道場の内弟子となって拳法三昧の生活を送り、師範の資格も得た。

優秀な人の、響かない話

 内弟子となって2年が経った頃、拳法の師から「地元に帰って、武道をしながら仏法を広めることも仕事だぞ」と言われた。自身もそう考えていたが、武道家としてはともかく、僧侶として納得できるものを得ていないことが気になった。

 浄土宗教師の研鑽の場として開設される修練道場に同級生が入っていたことを思い出し、自らも入行を決めた。教学や法式の勉強ならどこでもできるが、修行は違う。「武道と同様、同じことを繰り返すことで、雰囲気を身にまとえる。〝和尚臭さ〟を身につけなければ」

 修練道場では、各界で活躍する講師が、自らの信仰をもって熱心に語っていた。「教学とは、信仰だ」。たとえ優秀な研究者であっても、信仰を持たない人の話は心に響かないことにも気付いた。

突き詰めれば世捨て人

 満行後は、経験を生かしてほしいと頼まれて、宗務庁教学局職員や修練道場の指導員として勤務。ようやく大雄寺に戻れたのは、30歳の時だった。

 帰郷してすぐ、拳法「太道」の道場を開いた。武道家ではなく、僧侶として必要だと感じたためだった。「僧侶は突き詰めれば世捨て人。世間にとって必要ない存在だからこそ、世間に関わるための手段がいる」

 社会との関わり合いは、武道を通じてだけではない。地域の子どもたちに寺を開放して勉強を手伝い、新型コロナウイルスの感染拡大で休校が続いた際には、居場所として機能した。年に数回、ジャズコンサートも開いている。寺に来たことがない人が気軽に入れるようにするためだという。

 「『いつでもお参りください』と寺が言っても、現実は入れる状況にない。こちらが歓迎する状況を作らなければならない」。僧侶も寺院も、社会が何を求めているかを考えるべきだと言う。

 一方で「社会や風潮に迎合することなく、本来はこうあるべきだという教えの視点が必要だ」とも。雰囲気や聖性をまとい、社会に受け入れられる何かをにじませるのが、僧侶だと考えている。
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【用語解説】武徳殿(ぶとくでん)
 平安神宮の造営に際して1899(明治32)年に建設された大日本武徳会の演武場。武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、「東の講道館、西の武徳殿」と評された。現在は京都市武道センターの施設として、さまざまな武道が行われている。

(文化時報2020年9月9日号から再構成)
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